近世公家邸の造営の例として桂宮家の石薬師屋敷と今出川屋敷の造営をとりあげ、その造営における御出入大工や絵師の様相を主に『桂宮日記』をもとにして分析した。大工をはじめとする職人については、名前は判明しても、御出入衆としての桂宮家との関係はまだ不明な点が多いが、絵師の場合は、誰がどの絵を担当したか、造営のどの段階で桂宮家と係りをもつかなどが判明した。特に片山尚景をはじめとする片山家については、平戸藩のお抱え絵師が京都で桂宮家の仕事をし、平戸へ帰ったときは平戸の藩の仕事をし、あたある場合は江戸へ出て幕府御用絵師の狩野派の絵師のもとで修行していることなどが明らかになった。桂宮家の御殿は二条城本丸も御殿として現存し、今出川屋敷からの移築とされているが、石薬師屋敷から一度今出川屋敷へ移され、そこから二条城へ移されたものが多いこと、その際本丸御殿としての使い勝手から改変された部分のあることなどが判明しているが、そのような建物の分析と合わせて、絵師の仕事振りに対する分析を今後さらに詳細に行う予定にしている。 次に裏松固禅については、従来知られていた京都御所造営に果した役割以外に、近衛家や桂宮家にも出入りし、桂宮家においては、造営以前の段階から宮家に出入りしていた。いわば設計顧問のような役割を果たしていたことが判明した。桂宮家石薬師屋敷の寛政度造営の場合、寝殿の図を作成するため宮家を訪れ、その後に幕府から寝殿造立の許可がおりている。殿内のことについての相談もしている。なお、このときの絵師は鶴沢探泉と宮家との関係も今後分析する予定にしている。 以上のように絵師をはじめとする御出入衆の様子が次第に明らかになっており、今後さらに分析を進め、建築および絵画作品の検討と合わせて総合的な検討を行うことにしている。
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