近世公家邸宅の造営における絵師・大工等御出入衆が、邸宅の造営とどのようにかかわったが、御出入りの実態はどのようなものであったかを、建築史の立場から明らかにするのが本研究の目的であるが、3年間の研究の結果、公家としては京都の桂宮家、近衛家等を中心の史料を見出すことができ、また御出入衆としては主に絵師について多くの検討を行うことができた。造営関与者として注目すべき存在である裏松固禅については、近衛家の近記である『基前公記』享和4年(1804)4月23日条に近衛家が固禅に「寝殿造作之指図」を依頼したことが判明する記事がある通り、天明8年(1788)の焼失後の近衛家の造営に固禅が関与しており、また『桂宮日記』により、桂宮家石薬師屋敷の寛政度造営に固禅が関与していることなどが判明した。絵師の御出入りの様相については、桂宮家に出入りした片山尚景の桂宮家への出入りの実態、原家の嘉永から明治初期における仕事の様相等が判明した。建築造営において絵師が障壁画下絵を作成したことは東京国立博物館所蔵の江戸城障壁画下絵によってすでに判明しているが、久留米藩御用絵師三谷家の絵画資料の中にも、江戸城障壁下絵があり、造営に絵師がどのように関与したかを知ることができる。また福岡藩御用絵師尾形家の絵画資料には、福岡の藩邸または同藩江戸藩のものと判断される平面図があり、附箋で画題・仕様等が示されていて、部屋の機能と画題の関係、障壁画の種類、障壁画製作のための工夫などが判明した。また、京都二条城本丸御殿として現存する桂宮家旧今出川御殿の障壁画については、担当絵師、絵師の桂宮家への御出入りの手続き等が明らかになった。 以上のように、従来建築史分野ではあまり取り上げられていない御出入衆と造営との関係につき、新知見を得ることができた。今後は美術史分野と合わせてより詳細な分析を行うことが課題となると思われる。
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