デカルトが方法的懐疑を通して心身の実在的な区別に言及する一方、「身体は人間精神によって形相づけられる」とも述べて、人間精神=実体的形相という説を保持していたことは明らかである。ところで人間精神が、一個の実体としての人間の部分であるのか、それともそれ自身として存在する一個の実体であるのかという問題は、トマス・アクィナスにもある(拙論(1988))。ただしジルソンによれば、人間精神を不完全な本質を持つものと見るが完全な本質を持つものと見るかという点にトマス説とデカルト説の決定的な違いがある。さてこのようなデカルト説をとる際に生じる、心身の実体的結合の可能性に関する議論については、ゲーリングスやライブニッツらを含めて、従来から詳しい研究が行なわれてきた。しかし心身の実体的結合の必然性の問題については、近世初頭のアレクサンドロス説・トマス説・アヴェロエス説の間で三つ巴の論争があり、デカルトもそれを承知しているけれども、その詳細が研究されてきたとは言いがたい。この論争の中で、魂の不死性の論証可能性を否定するカエタヌスは、アレクサンドリストのポンポナッツィにくみして、トミストでありながらトマス説と齟齬をきたす主張をするにいたっている。あるいはスピノザの「人間の魂は神の無限の知性の一部である」という主張は、アリストテレスの『デ・アニマ』第三巻の解釈をめぐって十三世紀以来トミズムと対立関係にあるアヴェロイズムの側に位置づけしたのである。アヴェロエス説を論駁するトマスの立脚点は、可能知性の内在説であり、それは人間の魂における能動知性と可能知性の存在的な同一性の主張を伴う点で「殆どすべての哲学者たち」と一致しないだけでなく、離在的な能動知性と存在的に異なる内在的な能動知性の措定を伴う点で全く特異である。このようなトマス説の成立を可能にしたのは、言うまでもなくエッセの思想であり、創造の思想である。
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