我国近世の「仁愛」の展開を追跡しながら、我国に「博愛」が受容される有様を概観して、「仁愛」の土壌に「博愛」がどのように育ったか、「仁愛」と「博愛」の関係性はどうか、また、「博愛」の欧米諸国における実情はどうかという問題意識を持って、本年度の研究をすすめた。 欧米諸国と我国との精神的、社会的な分化の態様の異質性と同質性を、「愛」の概念を手がかりに把握しようとするところに本研究のそもそもの目的があったけれども、「愛」の概念は、我国においては「好き」に接ぎ木されて変容した趣きがあり、キリスト教を背景にもつ欧米の「愛」とは根本的に異なっているので、「愛」を定位することが課題となった。 そこで、我国の「愛」が独自の展開をみせた契機を鎌倉佛教と大和心の学を唱えた国学とに見いだし、佛教の日本化に伴って明らかになった日本人の精神的態度の特徴を「情」に捉えた。この「情」は佛教の「色」と「空」の日本的現実態であり、日本人の「縁」観が超越的なものから長上者あるいは仲間にいたるまでの対象への絶対的投企を生む基盤ではないかと推測した。また、人間が持つ自然性に対する根底的な信頼を前提にしている国学は、「もののあはれ」に人の間の共感能力の基礎を措定し、「愛」に拡がりを与え、これによって「仁愛」は儒教を越えて日本の土壌と化した、と思われた。一方、「博愛」は欧米のキリスト教的人格神の伝統の中で義認される信仰の現実的世界における能作であり、人間的愛の積極性であると把握した。 したがって、「仁愛」と「博愛」は、前者が人間の自然性を前提にする人間の共感に基づき、後者が信仰の義認を前提とする人間の積極的能作に基づく概念であり、両者の間には、信仰の義認という前提を除いた「愛」の積極的側面としての「仁愛」に共感される「博愛」という関係が成立している、と考えるに至った。
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