近世奥羽の社会では凶作・飢饉がたびたび襲い民衆を苦しめた。飢饉のなかでも、とりわけ天明の飢饉は、餓死者をたくさん出しただけでなく、人肉さえ食べたといわれるような「餓鬼道の世」を現出させていた。本研究は、奥羽地方の飢饉に関する史料をひろく調査・収集しながら、民衆生活のなかに飢饉を位置づけることを目的とした。研究期間中、文献史料の収集はほぼ所期の成果を達成できたと考えているが、論文としては施行小屋(御救小屋、非人小屋)に関する論文をまとめるにとどまっている。施行小屋の問題をまず取り上げたのは、飢饉によって飢えた人々に対して領主権力がどのように対応したのか具体的に検討してみたかったからである。その場合、単に為政者による救済事業というとらえかたに終わるのではなく、飢人をめぐる民衆と権力の関係のあり方に注目した。弘前藩、盛岡藩、仙台藩など奥羽各藩の天明の飢饉下における施行小屋の実態をあきらかにすることで、そうした課題に迫ってみた。近世社会は共同体を基礎とした村請・町請によって、領主と人民の関係が成り立っており、飢人が発生しても原則的には村・町が扶助すべきとされていた。しかし、村・町の救済機能が破綻したときはどうなるのか。飢人の乞食・非人化が促進されるが、ここに領主権力による施行小屋の設置という対策がでてくる仕組みになっていた。ここで注意しておくべきことは、施行小屋といっても、それは領主の乞食・非人に対する温情的救恤観と治安対策視が色濃く投影したものであった。しかも、民衆自身の乞食に対する差別感情が餓死収容所と化した施行小屋の有り様を許容していたことも見逃せない。飽食の時代にあって、飢えの民衆体験を振り返ってみることの重要性を再認識したい。
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