豊臣秀吉による九州国分けの結果、豊前国の主たる地域は黒田孝高が領することとなった。黒田孝高は天正15(1587)年7月に入部したが、ほぼ時を同じくして領内検地を行っている。その際の検地帳を発見した私は、それの活字化を試みた。それは豊前国宇佐郡高家村検地帳であり、「天正15年8月10日御検地」の日付が記されている。管見のかぎり九州における太閤検地帳のなかで最も古い検地帳といえよう。本研究において、これを公に出来たことは大きな成果である。また高家村の現地調査を行ったことにより、史料で学んだ知識を確実に自分のものにすることが出来た。 また、豊臣期における一揆のなかでも九州の一揆は大規模であり、その対策に豊臣政権は苦慮している。そのなかでも肥後国一揆は、規模・内容とも大きい。天正15年豊臣秀吉は、島津征圧を理由に九州へ入ってきたが、九州の統一には明国を服属させる問題があった。すなわち唐国までの領土拡張のための九州平定という考えがあった。これに立ち防がったのが肥後一揆等である。肥後の国衆一揆は、天正15年7月上旬から約半年間にわたって、肥後北東部の国衆である隈部親永・親安親子が首謀者となり、領主佐々成政の検地施行策に反対した一揆である。それは国衆と百姓が一味同心して起こした一揆である。百姓が一揆に参加した一事由として「寄合中」のもつ共同体の規制力があったと思われる。「寄合中」は肥後の各地にみられ、たとえば熊本市近郊の山上三名字という「衆」は「寄合中」によって構成されている。山上三名字衆の有力構成員である内田氏は19人・牛島氏は16人、田尻氏は12人から成るそれぞれの「寄合中」を構成していた。このように「衆」・「寄合中」を形成していたから、国衆・百姓が共に一揆に起ちあがることが出来たともいえよう。
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