豊臣秀吉による支配は、九州に近世的秩序をもたらした。たとえば、検地帳に多数の農民の名前が載せられることとなったこともその一証言である。慶長6年(1601)豊前の国宮佐郡高家村検地帳を本年度は紹介することができた(早稲田大学教育学部「学術研究38号」)。 昨年度に紹介した、天正15年(1587)と同村の検地帳と比較研究することによって、九州における中世から近世への移行期の実態を具体的に掌握することができた。すなわち、九州においては、土豪等らの在地領主の力が強く、豊臣秀吉もすぐには、彼らを支配下に治めることはできなかった。秀吉の重臣で黒田孝高は豊前の国に入部したが、入部直後に土豪層による一揆がおこっている。黒田氏はその一揆とたたかいながら検地をおこなっている。しかし、その検地は主として近畿地方にみられるような生産高を把握したものではなく、収取高を把握したものである。全国的にみても太閤検地において収取高しか把握できなかったことはまれな例といえよう。それは在地勢力の力が強かったことを物語っている。それに比して慶長6年においては生産高を把握している。 なお、豊前の国一揆は、在地領主層による検地反対一揆の性格を有するがそれは肥後の国においても同じ状況であった。肥後の国において有力な国人層による一揆がおこり、新しく入部してきた。佐々成政は、その失政により秀吉より改易されている。その国人層を支えたものは主として血縁共同体である「衆」であった。その「衆」もそれぞれいくつかの共同体によって構成されている。その母体となったのは一町歩以上を有する有力農民であった。
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