豊臣秀吉による支配は、九州に近世的秩序をもたらした。たとえば、検地帳に多数の農民の名前が載せられることとなったこともその一証言である。天正15年(1587)および慶長6年(1601)豊前国宇佐郡高家村検地帳を紹介することができた。 両検地帳を比較検討することによって、九州における中世から近世への移行期の実態を具体的に掌握することができた。すなわち、九州においては、土豪等の在地領主の力が強く、豊臣秀吉もすぐには、彼らを支配下に治めることはできなかった。天正15年、秀吉の重臣の黒田孝高は豊前国に入部したが、入部直後に土豪層による一揆が起こっている。黒田氏はその一揆とたたかいながら検地をおこなっている。しかし、その検地は主として近畿地方にみられるような生産高を把握したものではなく、収取高を把握したものである。全国的にみても太閣検地において収取高しか把握出来なかったことはまれな例といえよう。それは在地勢力の力が強かったことを物語っている。それに比して慶長6年検地においては生産高を把握している。 なお、豊前国一揆は、在地領主層による検地反対一揆の性格を有するが、それは肥後国においても同じ状況であった。肥後国において有力な国人層による一揆が起こり、新しく入部してきた佐々成政は、その鎮圧に失敗し、秀吉より改易されている。その国人層を支えたものは主として血縁共同体である「衆」であった。その「衆」もそれぞれいくつかの共同体によって構成されており、その母体となったのは約一町歩以上を有する有力農民であった。
|