年度当初に提出した計画にしたがって、本年度はまず基礎的な財政史料の渉猟をおこなった。九州大学や秋月郷土館、国立国会図書館、徳川林政史研究所、東京大学史料編纂所・附属図書館、京都大学、三井文庫等々への採訪を通して、多く、貴重な思慮を収集することができた。なかでも、東京大学史料編纂所蔵の元治元年幕府財政帳簿は史料的価値がきわめて高いものであった。この帳簿は、原本史料ではなく大正期の筆写本であった。しかしながら、この帳簿の史料的信頼性は高く、分析を実施することによって、長州征伐や筑波山での尊攘激派挙兵といった幕末期の混乱した情勢下での財政構造を解明することができるとの感触をえた。そこでこの研究を優先的にすすめることにした。分析・検討の結果えられた成果は以下の通りである。1.元治元年幕府財政の枠組みは、文久期と変わりがない。すなわち、年貢収納量は天保〜文久期の水準を維持しており、金方収支も貨幣改鋳益金に大きく依存しながら均衡を保っていた。2.しかし、将軍上洛や長州征伐は、年貢米金の移動の様態を変化させた。街道筋を中心とした地域での米穀備蓄、諸大名への手当て米金の支給方法の変更などによって、幕府蔵段階での収納量は大きく減少した。また、米需要が高まるなかで、幕府は米の買上げや買戻しを実施していく。3.大名の上納金・手伝金は、上洛供奉や留守警衛、進発供、旗本先手、常野州・和州賊徒追討などを理由に延納が許可される。また、貸付金や拝借金の返納も猶予される。大名の負担のあり方が軍事優先へと変化している。4.軍事動員などで負担が増加した大名・旗本へは手当米金や下げ金を支給することともに、馬喰町貸付金の活用によって財政援助を実現した。5.貨幣改鋳益金によって収支の均衡を保という構造は慶応2年ごろまでは維持されたが、改鋳原料には海外からの流入洋銀が利用されていたと考えられる。
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