開港から明治初期、通商条約を締結した条約国人の増加とともに長崎・横浜では条約未済国人である清国人の増加がみられた。長崎では本来伝統的には清国人は唐館内に在留することになっていたが、一方で中国本土の混乱回避を理由に条約国人の「召使」となったり、縁故を頼って来日し、唐館内の人別に記載されないま広馬場地域一帯に居住するようになっていた。また横浜は長崎と異なり清国人の伝統的な居留空間はなく、また広東省を中心に渡来した清国人が条約国人の「召使」であったとしても仏国公使が主張するように一時雇用のケースが多く、解雇後は帰国も出来ないまま在留する例が多かった。さらに入国時には運上所に上陸の申告を行っても、帰国時には申し出の必要がなかったため、清国人の在留実態の掌握は困難となっていた。こうした事態に幕府は基本的に清国人を(1)伝統的な唐館体制下にあって唐館内の人別に属している者、 (2)条約国人に雇用され基本的に条約国人扱いの者、 (3)何等かの理由で在留することになった者の3種に分類し、 (3)については基本的に渡来と在留を寄進する方向に動いていた。しかし長崎では奉行が清国人の渡来を一種の緊急非難とみなし唐館内への居住を認めたり、横浜では「横浜外国人居留地取締規則」を制定し外国人取締官を設けるなど、全国的に歩調はそろわず、また条約国が欧州条約未済国人の利益を守るために領事が裁判等に関与したことで問題を複雑化し、在留清国人の実態はなかなか把握できないままで、なし崩し的に明治をむかえることになる。こうして幕末から明治諸の対清国人取締上の問題は、日清両国の条約締結への動きとともに、日本法体制の統一的な管理下に「人別改め」と基本的には同一線上にある「籍牌」によって、在留清国人の個々を家族を含め居住実態を掌握しようとする模索が繰り返されていくことになる。
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