フランク・カロリンガ-王国の統一と解体がヨ-ロッパ世界の形成にいかなる意味を持つのか、この問題の解明の一端として本研究では「フランキア」という地理的名称に注目し、その概念の変遷を政治史の中に投影して追究してみた。それから得られた知見はおよそ以下の三点に要約される。第一には、フランキアというフランク部族の中核地帯を指した地名が、やがて王国内の民族ないし国家統合の象徴的・国制的概念としての意義を付与されていった点である。カ-ル大帝(768ー814)治下に入って多部族・多民族国家に拡大した王国の制度的統合が志向された時、フランキアは、部族を超越した統一的な領域概念として「フランク人の王国」の代替的名称となってゆく。殊に同大帝以降に称揚された国家の「統一理念」は、その根幹がまさに「フランキアの一体性」の維持に集約されていたことが明らかとなった。第二に、フランク王国の解体にとって、フランキア不分割という国制上の原則が崩れることの意味である。それは、ヴェルダン条約(843)によるフランキア三分割によって再び複数の分国を生み出し、さらにはメルセン条約(870)による中部フランクの再分割によって、「帝国の座」たるこの中枢地帯がもはや諸分国を纏める紐帯的役割を果たさなくなったことに他ならない。第三は、中部フランキアのかかる趨勢について、当地の王権の支柱であった中部フランク聖界は、その中核であるケルン・トリア両大司教の長期(863ー870)に亙る廃位によって統率を欠き、その政治的領域的解体を阻止しえなかったことである。以上の帰結としてフランキアの名は、東西両フランク王国に乖離・占有されることによって統合の役割を失う。その代わり、矮小化された形で西フランクの統合理念の核となり、やがてその継承国家に「フランス」という国名を付与し、他方東フランク・ドイツでは、国家権力中枢の地を指す「フランケン」の地名として機能していった。
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