(1)ミルトンと至福直観……中世カトリシズムにおいて最高の境地とされたvisio beatificaが近代プロテスタンティズムにおいてはもはや重視されなくなった理由を『失楽園』のなかに辿った。すなわち、理性を人間の最高の機能と見なす主知主義的思想の枠組においてはvisio beatificaこそ、その最終、最高の到達点であったが、理性の限界が指摘され、理性に対する意志の優位が意識される近代の思惟においては、visio beatificaにもはやかつての重要性は与えられない。かかる精神史の推移が『失楽園』においてはその劇的構造のなかに巧みに表現されている。すなわち、「堕落」を境にしてその前後に両者の立場が述べられている。堕落以前においては、天使ラファエルが理性の限界を指摘し、その過度の使用を慎しむよう戒めるものの、理性は最高の機能とされ、第七・八巻における天地創造の場面では理性による観想が展開されている。しかし堕落以後は理性は情熱にその主権を奪われ、理性による観想ではなく信仰による服従こそ人間の第一の義務であることが強調される。第五巻の被造物を通しての造物主への賛美と、第十二巻における主知的態度を一擲した主意的倫理的態度決定とは際立った対照をなす。そしてそのとき初めてキリストが、その十全の意味において理解されるのである。『失楽園』においては、贖い主キリストが、審き主でもあり、造り主でもあるものとして描かれる。これは改革者ルターの信仰と一致する。 (2)カテキズムについて……前述のごとき相違が、中世カトリック教会のカテキズムと近代プロテスタント教会のカテキズムの相違のなかに最も端的簡明に表現されていることを探った。それは叙述の順序の相違となって現われており、カトリック側が、「信条」「十戒」「主の祈り」の順序であるのに対し、ルターは「十戒」を冒頭におき、「十戒」によって深められた罪の意識が一切の出発点であることを説く。
|