1.ミルトンと至福直観 至福直観は、われわれが死後において直接顔と顔を合わせて神を見ることができる至福の経験である。ダンテの『神曲』においては、この至福直観が詩の最後に置かれている。これこそ、詩のすべての構造がそこに依拠する最も重要な根拠だからである。アリストテレスからトマス・アクィナスに至る主知主義的観想生活の究極的目的だからである。しかるに、ミルトンの『失楽園』においては、天使や人間が神を見る場面は、詩の冒頭、すなわち「堕罪」以前に置かれている。すぐに消えさる一瞬の経験として軽視され、『神曲』におけるごとき重要性を与えられていない。同じように、ミルトンは、ラファエルをしてアダムに対し、理性に頼りすぎるな、という警告を繰返させる。人間の究極の目的は、神を知ることではなく、神の意志に従うことだからである。とくに、堕罪の結果、理性の主権が情熱に奪われて後は、従順な信仰の模範としてのキリストが重要性をます。主意主義的な考え方においては、理性は影が薄れ、信仰が次第に重要な地位を占める。『失楽園』においてキリストが造り主・裁き主として登場するのはそのためである。御子が救い主であるためには、父に劣らず、造り主・裁き主でなければならないからだ。 2.カテキズムについて カテキズムが成立する由来を尋ね、カトリシズムとプロテスタンティズにおいて、十戒と使徒信条の扱い方が正反対に違う所以を明らかにした。また、カトリック教会とルタ-教会との間に揺れるカルヴァン派の立場をも明らかにした。同じカルヴァン派に属しながら『ハイデルベルク信仰問答』がルタ-派に近いところから、信仰におけるラテン的志向とゲルマン的志向の相違にも触れた。またアウグスティヌスの『エンキリディオン』が旧新両派に及ぼした影響をも論じた。
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