1989(平成元)年末には、さいわい単行本『ミルトンと近代』を出版することができた。ここに筆者は、年来ミルトン彼をめぐる諸問題について考察してきたことを総括することができた。 T、S、エリオットに始まった現代のミルトン批評を理解し、それを超克するためには、単に文学批評の次元にとどまらず、最も根源的な信仰の次元から解明する必要を感じ、エリオットのカトリシズムにミルトンのプロテスタンティズムを対置させ、両者の相違と葛藤を、ギリシア以来のヨ-ロッパ精神史のなかに探ろうとした。 表現の面では、視覚的想像力と聴覚的想像力の対立、アレゴリ-とシンボルの対立、さらに両者がギリシア的・空間的イメ-ジであるのに対しフィグ-ラがキリスト教的・時間的イメ-ジであることの指摘を行ない、それらがすべて如何にヨ-ロッパ精神史の所産であるかを明らかにした。 内容の面では、主知主義と主意主義を座標軸にしてミルトンがどこに位置するか、その発展過程において如何なる軌跡を描いたか、を辿った。ギリシアにおけるアリストテレスとプラトンの相違、キリスト教とともに明白になった両者とパウロに相違、中世における実念論と唯名論の相違、これらの対立をふまえてミルトンの「主意主義」を明確化した。最近の論文では、主知主義の極致としての至福直観がミルトンによって、如何に扱われているか、を論じた。また、主知主義と主意主義が最も鮮明に表せされているカトリックとプロテスタントのカテキズムを採り上げた。さらに、主知主義的アプロ-チによって神を知りうるか、という問題意識に基いて、わが国最初の「西洋」学の古典、新井白石の『西洋紀聞』を扱った。18世紀の新井白石が、20世紀のバ-トランド・ラッセル同じ理由でキリストを付けているのも興味ぶかい。
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