1.ドイツ市民劇の前史についてはChristian Weiseの喜劇"Ba^^¨uerischer Machiavelli"(1679)と"Masaniello"(1683)を分析した。従来の文学史的常識ではバロック演劇に数えられるこれらの作品は、もともと学校劇として教育的機能を有していたが、それが十八世紀の啓蒙主義市民劇における観客の教化という機能に接続していることが明らかになった。この点でWeise劇が十八世紀半ばのLessingの初期喜劇をへて十八世紀後半の市民劇にまでつながっていることは特筆に値する。とはいえWeise劇が意図した教育内容を検討してみると、それは主として当時の政治・社会体制の現実に順応するために「正しい」政治的・道徳的行為を、それに反する主人公を戯画化することによって示しており、宮廷ないし貴族社会に対する反逆といういわば革命を題材にした"Masaniello"においても、むしろ革命の愚かさを例示する意図がよみとれる。その意味では、十八世紀半ば以降の市民劇に、市民意識の立場から啓蒙絶対主義体制の現実を批判するインパクトが認められるのと異なる。2.ここにみられる市民劇の機能転換の過程にあって、Gottschedの"Sterbenuer Cato"(1731)が丁度その転換点に位置しているというきわめて興味深い事実が認識された。現実の政治的力を体現するシーザーに抵抗するカトーの共和主義的モラルには後の市民劇を支える理念が先取りされていると同時に、その理念に固執して自殺に追い込まれる主人公の悲劇的最後を主題化することで、この作品は現実離れした厳格主義への批判を通じて政治的現実への賢明な対応(順応ではなくとも)を促してもいる。Gottsched派ザクセン喜劇の傑作とされるLessingの処女作"Der junge Gelehrte"については論文を書いて、市民意識の構成要素を析出し、市民意識への批判的契機を賢明。その際、市民劇史における十八世紀前期から中期へのつながりが明らかになり、来年度の研究への準備作業ともなった。
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