研究概要 |
われわれは横浜市立図書館および神奈川県立文書資料館、東京大学社会科学研究所が所蔵する資料の複写を行うとともに、元全自動車日産分会活動家のヒアリング調査を実施し、1953年日産争議についての基礎データの収集・整理はほぼ完了した。また、同業他社との比較を通して現下の日産の労使関係を理解するために、トヨタおよび東洋工業の調査も行った。こうした作業を通して次のことが明らかとなった。(1)従来、1953年争議は、経営権を確立すべく会社側が提案した「ノーワーク・ノーペイ」の原則の確立をもって決着したと解釈されてきたが、争議終結に当って締結された協約では就業時間内の組合活動が大幅に承認されているのであって、「ノーワーク・ノーペイ」の原則は未確立のまま残されていた。(2)この争議過程で誕生した右派の日産労組と会社との労使関係は、一段には53年以前とは全く異なる機構をもって形成されたと考えられてきたが、工場・職場の労使関係機構は全自動車時代のそれを継承している側面が大きい。(3)会社は日産労組との間で先の協約と同種の協約を締結するばかりか、労使慣行として協約以上の時間内組合活動の自由を認め、組合を通して従業員を統治するという間接管理を行ってきた。(4)1985,86年の労使関係の改革は、以上のような全自動車時代以来の労使関係、経営権を制約された労使関係を最終的に清算し、トヨタ型の労使関係に転換するというところにその意味がある。(5)日産労使関係の転換は、トヨタ型が労使関係の日本モデルとして自動車産業を制覇したことを示す。東洋工業の労使関係もトヨタ型に接近してきているのである。以上の事実発見は、筆者が別のプロジェクトの中間報告として発表した「自動車産業における経営管理と組合規制」(上)(下)〔「社会科学論集」65号、66・67号合併号、1988年11月、89年 3月〕にも一部取り入れられているが、今後、紀要などを通して公表していきたい。
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