カ-タ-政権の末期に、連邦補助の実質支出は低下しはじめた。その理由は、1978年の提案13号の採用に象徴されるようなアメリカの保守化に求められる。レ-ガン政権は、保守的ム-ドを背景にして、この低落傾向を一段と加速化し、低落した水準を維持した。レ-ガン政権下の補助金削減の最大の特徴は、「偉大な社会」期に創出された「サ-ビス戦略」型プログラムの大幅な削減にあった。 レ-ガンのブロック補助金案は大胆な提案であった。専門職のコンセンサスが得られる領域で統合を行なうとか、政治的に弱体なプログラムに焦点をしぼるという考慮は払われなかった。ブロック補助金化の代わりとして交付額を増額することもなかった。むしろ、それと同時に25%もの大幅な削減をしようとするものであった。このブロック補助金案は当初立法化される見込みは薄かった。この予想を逆転したのは1981年の総合予算調整法であった。1981年の「調整過程」は争点をレ-ガン大統領の観点で定義することを可能にした。補助プログラムの構造をめぐる重要な決定は、特定補助金の後援者や受益者によって支配されている個々の委員会の領域から取り去られ、全体としての議会と国民の前に置かれた。調整過程はブロック補助金を一挙に9件も成立させただけでなく、補助金をはじめとした連邦支出の大規模な削減にも大きな役割を果した。 このように、補助金制度を再編するうえで1981年総合予算調整法は驚くべき成功を収めたのだが、レ-ガン政権下のその後において、このような成功が繰返されたわけではなかった。議会が前よりも強いイデオロギ-的、党派的な不信を抱くようになったためである。
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