細胞内での生化学反応の多くは,膜タンパク質を触媒として生体膜の内部やその近傍で進行する.生体膜の構造とその時間変化は,そこで進行する生化学反応にきわめて大きな影響を与える.有力な生体膜の構造モデルである「脂質ラフト」は,脂質二重膜がドメイン構造を有することを仮定している.「脂質ラフト」モデルの妥当性を検証することは,現代の科学に課せられた大きな問題の一つである.本研究では,先端的な分光法を実験手段として,脂質二重膜におけるドメイン構造の有無を検証することを主な目的とした. 本年度は,主としてピコ秒時間分解けい光分光法を利用して,人工脂質二重膜内部および細胞膜内部での粘性を評価した.研究代表者がすでに製作していたピコ秒時間分解けい光分光計を本研究のために用いた.脂質二重膜の特定の深さにおける粘度を評価するために,飽和アルキル鎖のスペーサーによってtrans-スチルベンと極性基が結合したけい光プローブを開発した.このけい光プローブを混合したリン脂質が形成した脂質二重膜の時間分解けい光分光測定を行うことによって,特定の深さに固定されたtrans-スチルベンの周囲の粘度を見積った.その結果をもとにして,人工脂質二重膜で観測される粘度の不均一性が膜の水平方向の不均一性に起因する可能性が大きいことを明らかにできた. 本研究課題を遂行する際に,A02班の大谷亮班員およびA03班の申惠媛班員との共同研究を進めた.大谷班員との共同研究では,人工脂質二重膜中に配置したドナーとアクセプターの間でのエネルギー移動に対して膜の物性が与える影響を検討した.申班員との共同研究では,HeLa細胞における細胞膜の粘度を評価するための新たな分光測定法を開発した.これらの領域内共同研究を通じて広範囲の試料に対する分光実験を行うことで,多様な脂質二重膜が示す物性を明らかにすることができた.
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