高等生物は、発達期における外環境からの感覚刺激によって脳神経を可塑的に変化させ、嗜好性・社会性・環境への適応性に変化が生じる。私たちはこの変化を「個性の創発」と捉え、遺伝的にプログラムされた神経回路によって制御される先天的な情動・行動の出力が、新生仔期の外界入力によって抑制もしくは修正されるプロセスを、マウス嗅覚系を用いて分子・神経回路・行動レベルで明らかにすることを目指している。 前年度の研究で、生後一週間という臨界期に、嗅覚刺激がSema7Aシグナルを介して嗅細胞と僧房細胞間のシナプス形成を促進することを明らかにした。そこでまず、嗅覚入力を阻害してシナプス形成が不全だった場合に、マウスは匂いを検出・識別できるかについて解析を行った。その結果、検出感度は減弱するが、誘引性の餌の匂いや、忌避性の天敵臭・腐敗臭を正しく識別できることを確認した。しかし、通常は強い興味を抱く仲間の尿の匂いに対して、逆に避けることを見出した。これは、尿の匂いなど社会性に関わる特定の匂いには、臨界期に嗅いでおくことがマウスの社会性獲得に必要であると考えられる。 次に、臨界期に特定の匂いを嗅がせ、Sema7Aシグナルによるシナプス形成を積極的に促進した場合、どのようなことが起こるかについて解析を行った。その結果、嗅がせた匂いに反応する嗅細胞と僧房細胞間のシナプス形成が増強され、検出感度も上昇していた。更に驚いたことに、嗅がせる匂いの質感が中性や忌避性であっても、臨界期に嗅がせておくと、成長後その匂いが誘引性に変化していることを観察した。つまり、臨界期に嗅ぐ匂いは、例え先天的に忌避性の匂いであったとしても、誘引的な匂いとして上書きされ、刷り込み記憶される仕組みがあると考えられる。 以上のように、臨界期の匂い環境がマウスの神経回路形成に影響を及ぼして個性を決定し、成長後の行動に影響を及ぼし得ることを見出した。
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