生物は危機状態において生存確率を上昇させる能力を進化させてきたと考えられる。通常の状態では将来の活動に備えたエネルギー(ATP)の蓄積や組織の新陳代謝を促す細胞構成成分の生合成が必要となる。つまり、通常の状態では将来の生のためにエネルギーを貯蓄している。一方で、生命の危機に直面した状態では将来の生よりも、現在の死を防ぐことが優先される。このような局面では現在の生のために将来のエネルギーを犠牲にする必要がある。これまでの代謝研究では、正常な生体の状態、何らかの原因で正常な状態が維持できない病気の状態の研究が行われてきた。これに対して、私たちの研究により第3の状態である、危機応答状態が存在し、その状態はチアゾリン類恐怖臭(Thiazoline-related fear odors: tFO)などの先天的恐怖刺激により誘導できることが示された。通常でも病気でもない代謝状態としては、冬眠状態が知られる。冬眠ではエネルギー消費量を抑えて春を待つことを目的として体温や代謝を抑制する。tFOが誘導する危機応答状態と冬眠状態は、共に低体温と低代謝が誘導されるという共通性を持つ。しかし、両者の代謝状態の間には明確な相違点が存在することが明らかになった。脳へのグルコースの取り込みは冬眠状態では大きく抑制されるが、危機応答状態では大きく上昇する。冬眠状態では免疫作用が全般的に抑制されるため、炎症応答は抑制されるが同時に血液中の自然免疫細胞の数が大きく減少してしまう。この結果、感染に対する抵抗性が低下する。一方で、tFO誘導性の危機応答状態では、強力な抗炎症作用が誘導されると同時に、血液中の自然免疫細胞の数が増加する。危機応答状態はエネルギー消費の抑制を目的とするのではなく、潜在的な生命保護能力をエネルギーを利用して誘導することで危機状態を乗り切ることを目的とした新たな代謝状態であると考えられた。
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