研究領域 | トランスカルチャー状況下における顔身体学の構築―多文化をつなぐ顔と身体表現 |
研究課題/領域番号 |
20H04585
|
研究機関 | 東海大学 |
研究代表者 |
田中 彰吾 東海大学, 現代教養センター, 教授 (40408018)
|
研究期間 (年度) |
2020-04-01 – 2022-03-31
|
キーワード | 身体性 / 身体化された自己 / 文化と自己 / 日本的自己 / 対人恐怖症 / 社交不安障害 |
研究実績の概要 |
本研究は、グローバル化した現代社会において日本的自己がどのように変化しつつあるのか(または変化していないのか)、身体性の観点から解明することを目的とする。本研究が依拠するのは、現象学と認知科学の境界で発展してきた「身体化された自己(embodied self)」の理論であり、身体と環境の相互作用から創発する現象として自己を理解する。人類学者ベネディクトの『菊と刀』以来、日本的自己をめぐる従来の議論は「西洋vs日本」という二分法的な図式へのとらわれが強く、日本文化が不変の本質を持つかのように考える傾向が強かった。本研究では、身体性に着目することでこの傾向を改めることを念頭に置いている。身体的経験への焦点づけの違いによって文化的自己はさまざまに異なるしかたで構築されるものであり、その焦点づけは文化に応じて一定の傾向を備えているものの不変で固定的なものではない。この点について現象学的な枠組みのもとで解明することを目指している。 当初の計画では、理論的考察と並行してハワイの日系移民についてのフィールド調査を実施する予定だった(それにより、日本的自己が社会・文化的環境の違いによりどのように変化するのか見極めることを意図していた)。しかし、2020年初頭に始まったパンデミックのためフィールド調査は諦めざるをえなかった。そこで計画を変更し、身体性と自己と文化の関係を考察する事例として、対人恐怖症の症状論に取り組むことにした。この病は日本では戦前から知られており、1970年代までは国際的にも文化依存症候群とされていたが、1980年代以後は急激にグローバル化し、現在では「社交不安障害」という疾患名が世界的に使用され、対人恐怖症もその亜型と位置づけられるに至っている。本研究では、この間の歴史的変化を、トランスカルチャー状況下における文化的自己を物語る事例としてとらえ、現在研究を進めている。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
2020年初頭に始まったパンデミックの影響を受けて研究計画が大きく変化したため、現在の進捗状況として「やや遅れている」を選択した。本計画では当初、ハワイで日系人を対象とするフィールド調査を実施する予定だったが、2020年夏頃まで状況を見極め、今後も状況が大きく好転しないものと判断し、研究計画を変更することにした。日系人の調査の代わりに、日本文化と自己の関係を論じるさいに過去の文献で多く言及例が見られる対人恐怖症を取り上げ、その症状の病理学的解明から文化的自己の議論に迫ることにした。 昨年度明らかにできたのは次の点である。精神疾患の一種としての対人恐怖症は日本では1930年代に概念化され、1970年代まではいわゆる文化結合症候群とみなされて、日本文化に特異的な自己と対人関係の様相を示すものと考えられてきた。しかしアメリカ精神医学界の診断マニュアルが1980年に改訂されたのを機に、類似する症状が「社交不安障害」として欧米でも概念化されるに至った。現在では、文化的背景は考慮されるものの、対人恐怖症は社交不安障害の亜型として位置づけられている。 こうした歴史的変化は、本研究の観点からすると次のことを示唆するだろう。赤面、視線恐怖、発汗など、対人場面での身体症状を中心とする対人恐怖症は、日本では早くから概念化されたが、欧米でも同様の症状は存在する。したがって、(1)この症状は日本文化に特有の自己に固有のあり方を示しているのではない。社会的環境における「身体化された自己」は文化によらず共通のしかたでの構成過程を持っていると考えられる。ただし、(2)社会的環境での対人不安を示す身体症状について、日本社会は欧米に比べて強い関心を早くから示してきた。欧米で後に拡大することになる社会的環境の変化を、日本社会はやや先取りしていた面があるのかもしれない。領域会議では以上の点について報告を行なった。
|
今後の研究の推進方策 |
今年度は、現象学的身体論の観点から、対人恐怖症の症状論をさらに洗練させる。当事者が書籍やブログ等で公表している各種の事例を参考に、症状の身体性と社会性の関連を見極める。当事者は、家族や親友のような身近な他者ではなく、どちらかというと曖昧な距離感の知り合いの前で、もっとも強い対人不安に襲われ、赤面・視線恐怖・声の震え・発汗といった身体症状を経験することが多いようである。つまり、自己の身体が他者によって知覚される場面で、他者にどのように評価されるかわからないことが不安症状の中核にある。ジェームズの古典的な自己論の枠組みで言うと、「Me」が他者によって知覚されることで「I」を保つことができなくなるような状態である。 現象学者の中では、J-P・サルトルがこのような状況を分析するのに適した身体論を展開している。サルトルの言う「身体の第三の存在論的次元」とは、他者に見られることによって強く自覚される自己身体の経験である。他者に知覚される自己の身体は、自己の側からその姿を確実に知ることができず、「他者の心の中に描かれた自己の像」として自己から逃れ去る。対人恐怖症であれ社交不安障害であれ、対人不安の経験の身体的本質をここに見出すことができる。他者の視線によって自己像が他者に所有され、その評価が自己の自由にならないことが、対人不安の源泉になっているのである。 では、こうした普遍的な身体経験は、文化によってどのように焦点づけのしかたが異なるのだろうか。なぜ、欧米社会に比べて日本では半世紀も早くからこうした対人不安の経験が人々の関心を呼び、精神疾患として概念化されるに至ったのだろうか。また、1980年代になって欧米で疾患概念として広まっていった社会的背景は何だったのだろうか。以上の点について、一方で現象学的な記述を徹底しつつ、他方で社会・文化的考察を推し進めることが今年度の課題である。
|