本研究は、戦後日韓関係の歴史的事実のなかから「尊厳概念」を析出し、それが両国社会の相互の対立や摩擦や宥和のなかでどのように変遷し、構築されてきたのかを分析するものである。問題意識の出発点として、戦後日韓関係は両国社会がともに「尊厳概念を成長させてきた実践の過程であったのではないか」という問いがあった。 具体的には慰安婦問題や歴史認識という行為そのものに対して、それぞれの暴力性を指摘し、批判するという作業を行った。戦後75年以上の時の流れのなかで、暴力性はかつての加害者だけでなく、かつて被害者だった側にも認められる。 この複雑な関係性を、どのように解釈したらよいのか、というのが、本科研(新学術領域)におけるわたしの主な関心事であった。研究の結果、以下のような認識を得ることができた。 歴史を生きる個人とはなにか。「個人があらかじめ存在して、その個人が歴史を生きる」という世界観においては、「人権」という概念が有効である。人権はいかなる個人も持っており、それが蹂躙されてはならない。そのことは、あらゆる社会における基本的条件として保障されるべきである。しかし、「社会や歴史に生きる〈いのち〉が、個人として析出されてくる」という世界観においては、人権とは別の概念、つまり尊厳という概念のほうが重要である。 このような思考にもとづき、「非認知的和解」というまったくあたらしい和解概念を導出し、そのことを和解学叢書に収録された以下の論文にまとめることができた。小倉紀蔵「歴史認識と非認知的和解ー戦後日韓関係に関する一解釈」、梅森直之編『和解学叢書 第2巻 思想・理論 アポリアとしての和解と正義ー思想・理論・構想』明石書店、2023、288-334頁。
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