本年度は,昨年度実施した古代人およびチンパンジーの摩擦音/s/発音における口腔形状推定結果に対して,舌を形成可能かどうか明らかにするため,舌変形シミュレーションを主に実施した.昨年度実施したランドマーク法により,現代人の/s/構音時の口腔形状から古代人およびチンパンジーの上下顎形状に合わせた口腔形状が得られた.それと同じ手法を用いて古代人の舌形状を予測し,筋線維走行をヒトおよびチンパンジーの解剖データから推定することにより,変形シミュレーションを行った.変形シミュレーションでは,各筋線維の収縮活動を考慮するため,異方性応力を導入した運動方程式を有限要素法により計算した.舌の軟組織の非線形性については,Mooney-Rivlin式と呼ばれるひずみエネルギー密度関数による超弾性材料の解析手法を用い,舌組織の応力・ひずみ関係を再現するよう定数を設定した.筋線維については,オトガイ舌筋や横舌筋,垂直舌筋など7種類の解剖学的な分類に基づいて配向し,能動的な筋応力活動量を指定して,舌がどのように変形するのかを調べた. 結果として,現代人に比べて古代人やチンパンジーは前後方向により扁平な舌形状をもつため,上縦舌筋とオトガイ舌筋を刺激した際に現代人では舌先端を挙上できるのに対し,古代人やチンパンジーでは舌先端が後退した.そのため,歯茎摩擦音/s/などの舌先端の細かな変形が必要な発音において,扁平な舌ではうまく発音できないことが示唆された.つまり,進化における顎形状の前後方向の変化が,発音における下位機能となる舌変形機能の発達に大きく貢献していたことが推察された. また,昨年度実施した古代人の口腔形状の推定について,専門家からの査読を経て,音響音声学のトップジャーナルである米音響学会誌のExpress Lettersに掲載された.
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