本研究では、細胞内の化学・力学エネルギー変換で重要な役割を担うアデノシン三リン酸(ATP)分子の性質について、量子化学・統計力学に基づく理論的研究を行った。ATP分子は3つのリン酸基にエステルが付加したものであり、加水分解に伴う末端リン酸基の解離によって7--10kcal/mol程度の自由エネルギーを放出する。酵素や膜タンパク質は、放出された自由エネルギーを用いて触媒機能を発揮していると考えられている。本研究では、新学術領域の目的の一部として、特に溶液中での反応に焦点を当て、加水分解で生じる自由エネルギー変化の分子論的なメカニズムについて調べた。方法としては、反応に関与する分子を量子化学の方法で扱い、周りの水分子を経験的分子力場で扱うQM/MM法を用いた。特に、最近提案された平均場近似に基づく方法(溶質の波動関数を溶媒平均場の下で決定し、得られた平均波動関数を溶媒に埋め込む)を用いて、反応に伴う自由エネルギープロファイルを定量的に計算した。その結果、全自由エネルギーの変化は溶質分子内のエネルギー寄与(リン酸基間のクーロン反発)と、溶質--溶媒間の静電相互作用による安定化(溶媒和自由エネルギー)の大きなキャンセレーションによって生じていることが分かった。溶質分子内におけるクーロン反発は末端リン酸基を解離させる力として働くが、まわりの水分子はリン酸基の解離を抑制する方向の力を与えており、両者のつりあいが反応速度を決めていることになる。その結果、誘電率の低い溶媒(有機溶媒)では、溶媒和による反応の抑制効果が十分でなくなり、末端リン酸は非常に解離しやすい状態となることが分かる。これは、酵素中(低誘電率のタンパク環境)におけるATP加水分解を促進する物理的な原因の一つであると考えられる。
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