ATPの加水分解の自由エネルギーは生体におけるエネルギーの通貨であり、その自由エネルギーを解析することは分子生物学や物理化学における最も重要な課題の一つである。ATPの加水分解の自由エネルギーを理論計算によって得るには、量子化学と統計力学に関わる問題を同時に解決する必要がある。量子化学における問題として、水溶液あるいはタンパク質中のATPの電子密度揺らぎをいかに再現するかという問題がある。ATPは水溶液において最大で4価までの余剰電子を有し、これらは水という極性分子の運動によって著しく揺さぶられるので、電子揺らぎを再現することはATP加水分解の自由エネルギー計算にとって本質的に重要である。これは、溶媒を連続誘電体で扱う方法や平均場近似では再現できない。また、これには電子揺らぎに起因する自由エネルギーを統計力学に基いていかに計算するかという問題が付随する。 前年度までの研究によって、我々は、溶質であるATPを量子化学的に扱い、溶媒としての水を古典力学的に記述するハイブリッド型の第一原理計算分子動力学法(QM/MM法)と溶液の理論を組み合わせることによって、電子揺らぎの自由エネルギーを厳密に計算する方法を開発した。より具体的には溶質の電子分極に起因する系全体のエネルギーの分布関数を基本変数として、電子揺らぎの自由エネルギー汎関数を構築した。この方法をATPのモデル分子であるピロリン酸の加水分解反応に適用した。0価および1価のピロリン酸については、加水分解の実験値を極めて良好に再現したが、2価および3価については、計算値が実験値から10 kcal/mol以上も外れてしまった。これは、主に反応の始状態において、ピロリン酸から周囲の水分子への電荷移動の効果が現在の我々のモデルでは再現できていないことが主要な原因であると考えられる。
|