今年度は、密度汎関数理論に基づく第一原理計算を主たるアプローチとして、水素結合を含む分子性導体κ-H_3(Cat-EDT-TTF)_2の構造と電子状態について取り組んだ。この物質は、常圧ではダイマーあたりS=1/2を持つダイマー型Mott絶縁体と考えられ、低温まで磁気秩序を起こさず量子スピン液体状態を示す。他の多くの分子性導体とは対照的に、伝導層間に孤立した絶縁層が存在せず、異なる伝導層に属する2つのCat-EDT-TTF 分子ユニット間で1つの水素(H) を共有する特異な構造を有する。 第一原理計算手法を用いてκ-H3(Cat-EDT-TTF)2の常圧におけるバンド構造と分子間で共有されたHのポテンシャル面を求めた。得られたバンド構造から2次元面内の三角格子の異方性を調べるために、ダイマー間の有効飛び移り積分を求めた結果、b+c方向の飛び移り積分が他の方向よりも大きいことがわかった。すなわち、この系は1次元スピン鎖が2つの鎖間相互作用で結合された系とみなせる。また、伝導層間の3次元的な飛び移り積分は面内のものと比較して無視できず、典型的な2次元分子性導体と比べて大きい。さらに、共有されたHの役割を明らかにするために、Hを変位させた状態から構造最適化を行った結果、Hが片方の酸素の方向に局在化した場合に、異なる分子間で電荷の不均一化が起こることがわかった。いくつかの超格子を仮定し、Hの並び方を変えた秩序パターンによっては、空間反転対称性を破り強誘電体へ転移する可能性を見出した。最近、分子間で共有されたHを重水素(D)置換すると、低温でDの局在化と同時に電荷秩序が生じ、強い格子変形を伴い、非磁性状態へ転移することが実験から報告されている。水素の量子効果の役割や観測されている低温D秩序相との対応、S体とSe体でのH/Dの存在状態の違いについても議論した。分子性導体の磁気的性質を議論することを目的に、スピン分極を考慮した計算手法の構築にも取り組んだ。
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