2002 Fiscal Year Annual Research Report
飛鳥・白鳳・天平時代における渡来人の造寺・造仏に関する研究
Project/Area Number |
01F00154
|
Research Institution | Waseda University |
Principal Investigator |
大橋 一章 早稲田大学, 文学部, 教授
|
Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) |
LIM N. ‐S. 早稲田大学, 文学部, 外国人特別研究員
|
Keywords | 百済 / 軍守里廃寺 / 蝋石製如来坐像瓦積基壇 / 棲霞寺 / 瓦積基壇 / 北野廃寺 / 百済入師 / 上宮聖徳太子伝補闕記 |
Research Abstract |
今年度は、百済の旧都・扶余に位置する軍守里廃寺と日本・中国の仏教美術との関係について検討した。以下その概要を述べたい。 軍守里廃寺は、1935年から1936年にかけて百済の故地では初めて発掘調査がおこなわれた寺院址である。発掘報告によると、この寺院址は瓦積基壇をもつ塔や金堂、講堂が南北一直線上に並び、廻廊がこれを囲む形式、つまり四天王寺式伽藍配置であったことが明らかになり、また塔址からは蝋石製の如来坐像、金銅菩薩立像が出土し、これらは6世紀半ばごろの制作と推定されている。以後、軍守里廃寺は、日韓の仏教美術、仏教考古学を考えるうえで常にとりあげられてきたが、この寺院址や出土品のもつ意義についての総合的な研究はおこなわれていない。そこで本年度には軍守里廃寺とその出土品のもつ意義について検討することにした。 まず蝋石製如来坐像について検討したい。本如来像は、像高13.5cmの小像であるが、頭部から裳懸座に至るまで丁寧に彫り出した優品である。私は、本像の禅定印を結び、かっ裳懸をあらわす形式に注目したい。こうした表現は南斉永明7年(489)の創立と推定される棲霞寺の無量寿仏に酷似しており、本像は南斉の仏像の影響を受けたものと考えられる。一般に百済の仏教美術は梁の影響が強いといわれているが、本像は、百済と南朝仏教との関係に見直しを迫る重要な作例といえよう。 つぎに軍守里廃寺の瓦積基壇について検討したい。日本の近江および山城地方の7世紀後半ごろの寺院址からは瓦積基壇が多く検出されており、その起源は軍守里廃寺の存在から百済にあると考えられてきた。私も従来の見解に賛成するが、これに関連して『上宮聖徳太子伝補闕記』の「百済入師」という人物に注目したい。百済入師はその名前からみて百済系の渡来人であろうが、彼のかかわった寺院に蜂岡寺がある。蜂岡寺の寺家地とされる北野廃寺からは瓦積基壇が検出されており、これは百済入師によって用いられた可能性がきわめて高い。したがって百済入師の存在は軍守里廃寺とともに日本における瓦積基壇の百済起源説の大きな裏づけということになろう。 このように軍守里廃寺とその出土品は、5世紀末期から7世紀後半に至る東アジア世界の文化交流を考えるうえで重要な手掛かりを提供しているのである。
|