2003 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
01J04811
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Research Institution | The University of Tokyo |
Principal Investigator |
中田 喜万 東京大学, 社会科学研究所, 特別研究員(PD)
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Keywords | 近世日本政治思想史 / 学校の政 |
Research Abstract |
前年度に引き続き、近世日本の武家政府が儒学の「学校の政」の観念をいかに受容したかを分析し、関連資料を収集した。およそ以下のような事実が浮かび上がってきた。 18世紀以降、都市の出版文化に支えられた学問は武士に波及し、領地における文化拠点として学問所を設ける例が徐々に現れる。その学問所の意義は、商品経済化の中、武士の物質的かつ精神的引き締め(「倹約」)、いわば武士の家業道徳に見出されるが、徂徠学では画一的な教育を想定しないので実用に困難が生じる。そこで標準的な程朱学に回帰することになるが、学問所の目的に沿うようにその内容も加工される。かくして、かつて程朱学が自称したところの「正学」はその批判的含意を失い、学問所の中だけで通用するものとなった。 学問所での成績を人事考査に反映させることで武士の「正学」学習意欲を引き出す試みはある程度成功したが、それでは元来「正学」が批判した「俗学」の記誦詞章と差異がない。また「正学」への限定(「異学の禁」)は,学者をして自分の思想信条と学問所における教育とを<使い分け>する態度を生じさせた。学問所附儒者が政府の諮問に答える場合も特段「正学」に固執したわけではない。学問所の運用に「正学」が適していたとしても、その限りでの普及にすぎなかった。商業出版の上での自由な学問の営みに対して、学問所は本屋を媒介にした一発信者であったに過ぎない。ただし、天保の改革の一時期、本屋仲間を解散させて出版統制に学問所が利用されたことがある。これは却って混乱を招き、幕末に及んだ。 一旦、学問所の制度が定着し、諸大名にまで普及すると、学問所を媒介として、各大名家の枠組を乗り越える新たな交流の経路が形成される。特に昌平坂学問所の書生寮は重要である。ここに佐賀・鍋島家、鹿児島・島津家、萩・毛利家、会津・松平家など、諸大名家から選抜された武士が留学しに集まった。そのことは幕末の政治過程の一つの前提になると考えられる。 また、実現した学問所の制度と、理念としての「学校の政」を手がかりに、西洋(学校によって富国強兵したと情報が伝わる)に対抗する新たな国家構想の試みも現れた。横井小楠が代表的である。「実学」観、「政教一致」などの議論は、明治新政府の政策論争に引き継がれることになる。
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