1990 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
02610159
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Research Institution | 北海学園北見女子短期大学 |
Principal Investigator |
飯岡 正毅 北海学園北見女子短期大学, 経営学科, 教授 (40072425)
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Keywords | 秋田藩 / 佐竹氏 / 材木 / 部分林 / 分収林 |
Research Abstract |
本年度は、研究計画に従いこれまでの採訪調査によってマイクロ=フィルム化した次の史料を焼付け(24,000コマ)、その整理・分析に努めると共に補足現地調査を実施した。すなわち秋田藩佐竹家文書(秋田市)、延岡藩預り所日向国椎葉山史料(東京)、飛騨・美濃国山林史料(岐阜市・東京)等で、現在これらの総合的な分析に努めているが、秋田地方について概観して以下の史実を明らかにした。豊臣氏の天下統一が進み、秋田地方にも同氏の威勢が及ぶにつれ、造船用材・伏見城作事板が京坂に向けて回漕されるようになり、秋田杉が特産物として中央市場で注目される契機となった。続く徳川氏が覇権を握った当初も軍役板として秋田杉が畿内に向けて移出されたが、これらは全て中央政権に忠誠を示す証しとして採運されたから、当然採算は度外視された。しかしそれによって材木についても秋田→敦賀→琵琶湖→京畿の輸送ル-トが確立すると、軍役板と併行して販売目的の商品材の採出が、関ケ原の戦前後から見られる様になる。その後、寛文期に河村瑞賢によって西回り航路が整備され、秋田→大坂の直通便が就航すると秋田杉は大量にかつ割安に移出出来るようになり、一躍全国市場に進出することになる。当時、秋田藩佐竹氏は財政の窮乏が顕著となった時期であったから、領内の鉱山収入と共に材木収入を主要な藩財源としたが、植林を伴わない過大な伐採は森林資源の一方的減退を招く結果となった。その為、林産資源保護策として寛文〜延宝期には、本格的な留山・留木の制が布かれたが、より積極的な林分回復策としての植栽制度がとられるのは宝永〜正徳期で、特に正徳2年には収益を藩・民が分収する部分林制度が採用された。しかし分収率が五公五民であったことからその普及は遅く、文化8年三公七民の分収率に変更されるに致ってようやくその効果が現れ、村内有力農民による植栽が展開するのである。
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