Research Abstract |
清朝は,巨大な中国社会を統治するうえで,八旗を支配の中核として維持する政策を採用した。しかし,支配を社会のなかに浸透させるためには,たかだか20万にすぎない八旗の軍事力やその人的資源のみに依存することは不可能であり,統治の正統性を確立するためにも,入関前の軍事国家の体制を維持しながら,統治機構の全体を中国化させざるを得なかった。世宗雍正帝は「夷」と「華」が「一家となった」(『大義覚迷録』)と主張して,清朝の統治を中華の伝統のなかに位置づけた。このような体制の中国化と,八旗という特異な集団の維持との間には,さまざまな矛盾が生じざるを得なかった。マンジュやモンゴルの言語や慣習の継承を求められる一方で,中国社会の中で生活し,その文化や制度に沿って行動する必要があったからである。 八旗の人びとが,民族的・身分的に隔絶される一方で,中国社会の構成員として同化(清朝滅亡後,その趨勢は決定的となる)する過程にあったという点に着目するならば,八旗集団が周囲の漢人社会とどのような相互作用を発生させたかという問題が解明すべき課題となる。これは,清代中国に固有の歴史的問題であるのみならず,エスニック的な差異と文化変容,自己認識の形成と遷移など,普遍的な問題の理解に寄与することが期待される。外国人特別研究員Wang Lipingは,杭州,広州のほか,西安(陝西省),荊州(湖北省)の駐防八旗について,八旗志,地方志,旗人の詩文などの資料から関連資料を収集するとともに,人類学・人文地理学の研究成果から,この課題の解明に資する研究方法を探るため,理論的な検討をおこなった。岩井は1644年の入関以前,ヌルハチの勢力が遼東における商業・軍事集団から帝国を形成するまでの期間について,大量の漢人農民および兵士,知識人を受けいれることによって生じたエスニック集団間の差異と融合・協力が,清朝の国家形成と遼東という辺境社会の発展に,どのような特質をもたらしたかを明らかにする作業をすすめつつある。
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