Research Abstract |
エリアス・カネッティの権力論を基軸に,近代ドイツ語圏の社会・文化的状況におけるパラノイア的思考の体系化に関わる諸問題を,権力の諸相とともに研究している。カネッティは,「ファシズムの根源を解明する研究」と自ら称した『群衆と権力』(1960)において,ただ一人生き残ろうとする,生へのパラノイア的な執着こそが,他者の生を死へと放擲する権力を出来させていることに着目する。そのとき,総じて「生き残る者」は,他者の生を犠牲にして自分の生を継続する権力者と同一のものとみなされている。 本研究では,個人がこうした権力志向の網から逃れる可能性を「偶有性」-カネッティはこれを人間の有する「変身」の熊力とする-に求めてきたが,採用3年度目では「生き残る者」が権力から解放される可能性を考察の対象とした。その手がかりとして,『群衆と権力』と同時期に書き進められた膨大な量の『断想』に注目した。なぜならば,半世紀にわたって書き続けられた『断想』によって,カネッティの権力論を別の角度から照らし出すと同時に,彼の思想のゆるやかな変遷を辿ることができるからである。『断想』では,生き残った者の抱く優越感」は一転して,「生きながらえることの罪悪感」という別様の存在形式としてとらえられていることが明らかとなった。研究成果として,6(2)-3.(2008)が挙げられる。(6.研究発表を参照。)その傾向は『断想』のみならずカネッティの自伝三部作にもみられる。自伝には他者の死-とりわけ両親の死-が大きく影を落とし,彼自身の生は生きながらえた者の生として,他者の死によってしか規定されないことが繰り返し強調されている。その研究成果として,6(1)-1.(2008), 6(1)-2.(2008), 6.(2)-2.(2008)が挙げられる。 『群衆と権力』とは対照的に,『断想』や自伝三部作には「生き残ること」に「罪悪感」,「受動性」,「無力さ」といった属性がしばしば与えられているが,それは,カネッティがそれらの限りなく受動的なしぐさに権力からすり抜ける可熊性を見出したからである。このことは『群衆と権力』執筆以降,カネッティの関心の重点がパラノイア的な権力者の側から被抑圧者の側,例えば,無力者や小さき者へとシフトしたことによっても裏付けられる。
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