1996 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
07630079
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Research Institution | Nippon Bunri University |
Principal Investigator |
尾道 博 日本文理大学, 商経学部, 助教授 (40169355)
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Keywords | 倭館移館 / 朝鮮渡口浦 / 大船越堀切 / 鰐浦 / 佐須奈浦 / 「毎日記」 |
Research Abstract |
これまで近世日朝貿易の研究は、貿易仕法、取引品、その数量、商人などが中心であった。しかし、本研究で取り上げる日朝両国の港湾とその施設の設備、船舶の往来の航路の見直しについてはこれまで殆どと言ってよいほど検討されることはなかった。つまり、対馬藩の出先機関である倭館の移館問題、対馬藩の朝鮮渡口の移転問題、大船越の堀切を一体として対馬藩の貿易政策の一つとして検討することにした。 そのため寛文期(1661〜73)の各「毎日記」のうち、同9年(1669)から同13年(1673)までの「毎日記」はとりわけ重要な史料であった。また寛文期は、対馬藩にとってもいわゆる「記録の時代」といわれるように史料の存在の分かれ目でもあった。 この間対馬藩と朝鮮との間で交渉が持たれた結果、対馬藩は倭館の移館とという永年の念願を実現させることに成功した。一方、対馬藩は自藩の朝鮮渡口浦(対馬島の西側)の移転を行うなど港湾の整備を行った。つまり、対馬藩の朝鮮渡口が対馬島の北部に位置する鰐浦であったが、この鰐浦から少し南に位置する佐須奈浦に移した。また、朝鮮渡口浦から厳原(対馬島の東側)に最短距離で往来できるように西目(対馬島の西側)と東目(対馬島の東側)を直接結びつける航路の開発事業を完成させた。それが大船越の堀切であった。この堀切の完成で対馬藩は朝鮮貿易の物資を早く厳原に運ぶことが可能になり、国内の物価の情報を収集していた同藩は国内市場に対応できる体制を構築したといえる。 これらは寛永12年(1635)から実施された「兼帯の制」が貿易仕法の完成であったのに対して、対馬藩の貿易体制が確立したものといえる。これによって対馬藩は、朝鮮貿易を基盤とする藩経済のシステムを完成させたといえる。
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