1999 Fiscal Year Annual Research Report
19世紀オーストリア帝国における少数諸民族の言語権獲得過程とナショナリズムの研究
Project/Area Number |
11871068
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Research Institution | Doshisha University |
Principal Investigator |
伊狩 裕 同志社大学, 言語文化教育研究センター, 助教授 (50137014)
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Keywords | オーストリア帝国 / 言語 / ガリツィア / ユダヤ人 |
Research Abstract |
今年度は、ウィーンの、オーストリア国立公文書館(Staatsarchiv)および国立図書館(Nationalbiblitothek)においておよそ4週間にわたり当初の研究目的に従って資料の調査・収集にあたった。対象としたのは主として18世紀後半から20世紀初頭のハプスブルク帝国の官報、法令集、判例、国勢調査記録、地図などであった。マリア・テレジアのころから帝国崩壊に至るまでの間にオーストリア帝国は、言語に関わるものだけでも500〜600に及ぶ勅令、法令、条令、通達を発している。この数からだけでも、オーストリア帝国の、多民族・多言語国家としての特殊性はうかがい知ることができる。しかし、仔細に見ると帝国政府の言語政策、民族政策は19世紀半ばに憲法を持ったとはいえ、事情を異にする地域ごとに異なっており、政府が帝国としての外形を保つためにいかに苦慮したかということが見て取れ大変興味深いものがある。なかでも注日すべきは、ガリツィアであろう。ガリツィアは1772年と1795年の第1次および第3次ポーランド分割によってオーストリア帝国に領有されが、しかしこのことは、対外的にガリツィアがオーストリア領になったというだけのことであり、この地が文化的にゲルマン化されたということを意味するものではなかった。ここでは、ポーランド貴族の実権はそのまま温存されていたからである。政府はそれに対抗させるためルテニア人(ウクライナ人)、ルテニア語優遇の政策をとっている。さらにこの地はユダヤ人(いわゆる東方ユダヤ人)が多く住んだ地域であったが、彼らは、法的に「民族」として認められておらず(法的には「宗教共同体」であった)、また彼らの言語、イディッシュも帝国公認の「地方語」とはされなかった。ガリツィアは、同じオーストリア帝国内とはいえ、チェコ人対ドイツ人という構図が成り立つボヘミア地方よりははるかに複雑であったようで、次年度は焦点をガリツィアに絞る予定でいる。
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