2000 Fiscal Year Annual Research Report
19世紀オーストリア帝国における少数諸民族の言語権獲得過程とナショナリズムの研究
Project/Area Number |
11871068
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Research Institution | Doshisha University |
Principal Investigator |
伊狩 裕 同志社大学, 言語文化教育研究センター, 助教授 (50137014)
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Keywords | カール・エーミール・フランツォース / オーストリア帝国 / 言語 / ガリツィア / ユダヤ人 |
Research Abstract |
今年度は、ガリツィアに生まれた同化ユダヤ人作家カール・エーミール・フランツォース(Karl Emil Franzos1848-1904)の生涯に研究対象を絞った。フランツォースは、1848年、すなわち「ヨーロッパ・ナショナリズムの元年」と呼ぶことのできる年に、当時オーストリア帝国ガリツィア・ロドメリア王国のチョルトコフ(現ウクライナ)という人口およそ3500人の街に、同化ユダヤ人医師の長男として生まれ、ドイツ文化(啓蒙主義)の中で育てられる。この街は、他の多くのガリツィアの小邑がそうであったように、ユダヤ人が6割、ポーランド人が2割、ルテニア人が1割、ドイツ人その他が1割という多民族が混住する街であった。このおよそ6割のユダヤ人たちはほとんどが正統派東欧ユダヤ人であり、フランツォースのような同化ユダヤ人との間には、超えがたい溝があった。さらに、支配階級ポーランド人と小作農民層ルテニア人との間の軋轢もあった。フランツォースは、彼自身が「半アジア」と呼ぶ、このガリツィア、ロドメリア、ブコヴィナ、ルーマニア、南ロシアの地に、啓蒙主義と教養を普及させ、そうすることによって民族的な軋轢、また、それに基づく後進性からガリツィアを解放することを願った。ドイツ人であり同時にユダヤ人であったフランツォースにとっては、民族性の克服は自らのアイデンティティにも関わる問題であった。ところが、19世紀後半のハプスブルク帝国は、そのようなフランツォースの理想とはまったく逆のコースを歩むのである。すなわち、ハンガリーとのアウスグライヒ(1876年)、ポーランド人たちによる「ガリツィア決議」(1878年)、あるいは、ボヘミアのチェコ人たちによる言語権拡大の要求などに見られるナショナリズムの台頭であった。さらに1880年代以降には反ユダヤ主義も顕在化してくる。やがて第1次世界大戦によってハプスブルク帝国は崩壊し、第2次世界大戦によって、フランツォースの作品の背景となったガリツィアの東欧ユダヤ人世界は壊滅し、フランツォースの名前も忘れ去れていったのであった。
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Research Products
(1 results)