2000 Fiscal Year Annual Research Report
近世京都における公家町の性格とその成立・変容過程に関する研究
Project/Area Number |
12650650
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Research Institution | Shohoku College |
Principal Investigator |
小澤 朝江 湘北短期大学, その他部局等, 助教授 (70212587)
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Keywords | 内裏 / 公家町 / 外郭門 / 築地之内 / 公家邸宅 / 京都 / 都市 / 都市景観 |
Research Abstract |
近世京都において内裏周辺に存在した「公家町」について、本年度はこのうち「築地之内」と呼ばれる地域の変遷、および地域内での禁忌や管理体制を中心に検討した。判明した諸点は次の通りである。 (1)築地之内は、公家町のうち内裏外郭門で区切られた内側の地域を指した。周囲は外郭門以外に区切りがなく、築地之内の名称は内裏を「築地」と呼ぶことに因んだもので、内裏に準じる空間であることを示していた。 (2)築地之内を区画する外郭門は、慶長末年頃には2箇所だったが、江戸中期にかけて増設されて最終的に9箇所となり、門で囲まれる範囲は次第に南に拡張した。門によって閉鎖された構成になって初めて築地之内は成立したと判断され、その時期は二条城行幸に中立売御門が用いられた寛永3年(1626)以降、6箇所の門が確認できる寛永20年以前の間となる。 (3)9箇所の外郭門は、寛文13年(1673)以後に設置された3箇所を「三門」、それ以前から存在した6箇所を「六門」と呼んで区別し、前者は附武家の同心、後者は禁裏口向に属する六口御門番が番に当たった。 (4)築地之内は、一般の町人の日常の通行は自由だったが、天皇や公家、武家の公式行事では通り抜けが許されず、葬送など不浄なものを近づけぬよう配慮されており、外郭門の番は築地之内に住む公家の行動や一般の人の出入りを制限するよりもむしろ、築地之内を汚さぬことに重点が置かれた。すなわち、築地之内は平安宮における大内裏と同様、内裏に準じる空間として扱われていたと考えられる。 (5)公家邸宅では、家の格に応じて家廻りを築地または練塀で囲ったが、築地之内の場合、日之御門通筋など内裏に近く、特に目立つ部分では家の格に関わらず築地が用いられた。また、築地之内の公家邸宅の門や築地・練塀は幕府の費用で造営されており、内裏に準じる空間として築地之内の通りの景観を整えるために幕府が関与したと考えられる。
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