Research Abstract |
近代の倫理思想においてとりわけ特徴的にみられる,道徳の「内在主義的性格」は,同時に「なぜ道徳的であるべきか」という問題に道徳外の視点から答えることの難しさ,言い換えれば,道徳を基礎づけることの困難さをも含意していた。このことはまた基礎づけの困難さを自覚しながらも,しかし単なる「独断論」に陥らないための工夫を,それぞれの倫理学説に要求することにもなっている。昨年度は,そうした視点から「道徳的自然主義」を取り上げ,その非形而上学的説明が,道徳の基礎付け問題に対して持つ意義を検討した。すなわち,道徳的自然主義は,「道徳」そのものを「なぜかは分からないが多くの人々が従っている自然の事実」と見なすことで,基礎づけの困難さを消極的には説明してくれるが,逆に(何故だかわからないだけに)どんな奇矯な理由付けでも,とにかく道徳の地平に到達し道徳の自明性(自然性)を身につけさえすればそれで構わない,というご都合主義的側面も抱えている。それゆえ,理由付けが批判されたり道徳への信頼が揺らぐと,自然的事実と思われた道徳の土台が一挙に雲散霧消しかねない可能性をも孕んでいることになる。 こうした問題を確認した上で,本年度は,道徳的内在主義の典型ともいえるカントの道徳理論を取り上げ,彼が道徳的自然主義から距離をとり,道徳の基礎づけ問題をあくまでも形而上学的課題として受け止めつつ,別の意味での自然性に配慮した答えを与えている点に注目した。すなわち,カントが形而上学的基礎付けに拘ったのは,自然主義的説明に付きまとっていた道徳の偶然性を払拭し,道徳に何らかの必然性(道徳的であるべき理由)を付与するためであったのだが,そのために彼はある種の自然性に配慮しながらも,人間の本質としての理性を引き合いに出ている。つまり人は自然によって「理性的」であること課せられている限りで,「道徳的であるべき」理由があり,しかもその場合の道徳性とは自由(自然の制約からの自由と自律)に裏打ちされたものでなくてはならない,という逆説的ものであった。そして最後に(かつてのスペンサー流の進化論的倫理学ではなく)近年の進化論的倫理学を取り上げ,その基礎づけ問題に対する複眼的見方,すなわち基礎づけは無効でありながら,道徳は客観的根拠を持たなくてはならない,という考え方を検討することで,カントによる道徳の基礎付けの特殊性を別の角度から明らかにした。
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