2003 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
13680114
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Research Institution | Niigata University |
Principal Investigator |
福原 昌恵 新潟大学, 教育人間科学部, 助教授 (00002551)
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Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) |
溝口 敏麿 新潟大学, 人文学部, 教授 (70092731)
高橋 桂子 新潟大学, 教育人間科学部, 助教授 (50311668)
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Keywords | 授業生補助 / 準教員解職 / 明治26年開塾 / 幼弟妹連れ / 明治29年(28年末も)妻帯 / 本町7番町41番戸 |
Research Abstract |
現存する新潟市の赤澤保育所は日本で最初に開設された保育所として、明治23年とも、同25年創立ともいわれた新潟静修学校に併設され、創設者赤澤鍾美の妻ナカが保育を手がけたとされていた。本研究では赤澤保育所設立の時期、位置、保育者及び当時の保育状況、社会的背景について明らかにすると共に、新潟県下の保育所がその精神をいかに継承して今日に至っているか聞き取り調査を行い検討した。また最近の保育動向を併せて検討した。 明治期の新潟は西南戦争後に米価が高騰すると米作農民、特に地主が潤い、続く松方デフレにより更に大地主が数、規模ともに全国で群を抜くようになる。しかし日本海側ただ一つの開港場に指定された新潟港は治水工事が優先されて整備が遅れたために振るわず、人や物が鉄道によりもっぱら流出した。そうした中、歴代巡察使あるいは新潟奉行から越後女性は働き者との評価を得、やがて定着する一方で義務教育への就学率は低く推移した。 赤澤庄吉は明治11年12月に新潟四番堀校の授業生補助として俸給二円で就業した。洲崎校、豊照校等を転任し、授業生採用試験が導入されれば合格後授業生免許状資格を有して更新・採用されるが、師範学校卒業者が講習を受講できても授業生は参加のみとされ、また俸給額も低額とされるなど冷遇され、明治26年3月新潟市立鏡淵尋常小学校を最後に準教員は全員解職される。この年赤澤は鍾美と改名して新潟静修学校を開塾し、9月から12月まで雇助手として小学校の代用教員にも臨時就業するが、以後小学校への就業はない。赤澤は静修学校生が幼弟妹連れで登校するのを許した。 赤澤は26年6月半ば本町通7番町41番の地に静修学校を開く。赤澤と妻ナカとの結婚は明治28年末から29年にかけてであり、結婚後ナカが保育に携わることになるが、それ以前に保育が為されたとすれば赤澤の養祖母ナヨもしくは伯母イク等によってである。そこでの保育は運動場も器具(遊具類)もなく座ったまま二人で一つの机に向かっていたと明治26年生まれの入所者の談話にある。 新潟新聞を見ると大正7,8年頃から託児所関連の記事が見えはじめ、新潟静修学校に関しては7年3月29日が最初である。その後年に一度ずつ取り上げられるようになり、大正15年になって「私立の託児所のうちに最も古い」とした内容の記事が掲載された。大正9年設立の新潟保育園と比較すると資産、経費とも小さく、保育料も1/3程度であった。同時期とされる鐘ヶ淵紡績東京工場託児所もめぼしい遊具などない類似性があった。昭和45年、平成13年頃の企業内保育所につき検討した。
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Research Products
(2 results)
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[Publications] 福原昌恵, 高橋桂子: "新潟市赤澤保育所における昭和初期の保育-当時の保母の聞き取り調査をもとに-"新潟大学教育人間科学部紀要(人文社会科学編(1)). 第5巻第2号. 1-9 (2003)
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[Publications] 高橋桂子, 村井美枝子: "少子高齢社会における企業福祉"新潟大学教育人間科学部紀要(人文社会科学編(1)). 第4巻第2号. 379-387 (2002)