2002 Fiscal Year Annual Research Report
中世の地方寺院における伽藍造営とその社会的背景に関する研究
Project/Area Number |
13750602
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Research Institution | Kobe Design University |
Principal Investigator |
山之内 誠 神戸芸術工科大学, 芸術工学部, 講師 (40330493)
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Keywords | 小浜 / 明通寺 / 中世 / 頼禅 / 伽藍 |
Research Abstract |
平成14年度は、若狭国小浜の明通寺を中心とする中世寺院文書の分析を行い、中世小浜における寺院経済と伽藍の造営・整備との関係を検討し、以前に扱った讃岐の善通寺との比較研究を行った。その結果、大きくは荘園制の盛衰・在地武家勢力の伸張といった全国的に共通する時代背景に規定されつつ、一方では寺院の存続をかけた多様な経営方式が存在していたことが浮き彫りになった。時代を追って概述すると、以下の如くである。 10世紀末から12世紀にかけては、若狭では比叡山が末寺(三方寺、大興寺、興道寺)を所領化・支配し、讃岐善通寺と似通った中央大寺社による末寺の所領化が進んだ。しかしこれ以外にも一宮・二宮のように、在庁官人や国人が姻戚関係を通じて神官職をはじめ得分権を伴う荘園諸職を獲得・独占し、いわば国衙機構を牛耳る在地豪族等との結びつきを強めることにより存続の道をさぐる寺院も多く存在した。中世を通じて一貫して本寺たる権門寺院からの経済的支配を受けなかった明通寺も、後者に類すると考えられる。 13世紀中期から鎌倉時代末期にかけては、明通寺にとって伽藍造営事業が最も盛んな時期であった。この時期院主であった頼禅は、本堂をはじめとする伽藍の悉くを再興しているが、得宗主導の全国的な寺社復興の機運の高まりの中、地頭多伊良氏から多くの寺領寄進があり、在地武家勢力と緊密な関係を築いたことが背景に存在している。 南北朝期以降、明通寺では目立った造営事業はみられないが、守護方より度々税を課されて、同時に祈祷や従軍などの奉仕までもが求められるようになった。こうして荘園制の衰退と守護領国制の展開に対応し、次第に武家に仕える立場へと転落して荘園領主の地位を喪失していく様相は善通寺とも共通するもので、中世寺社勢力の終焉を示すものと考えられる。
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