2002 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
14510015
|
Research Institution | Hokusei Gakuen University |
Principal Investigator |
神谷 幹夫 北星学園大学, 文学部, 教授 (50194981)
|
Keywords | 思考 / 自己意識 / 精神の生理学 / 身体 / 裁かれた幻想 / 観客の観客 / 形而上学 / 知覚 |
Research Abstract |
アランのなかで「力」と「正義」にかかわるものを読んだ。そこから次のような省察に至っている。まず、力と正義がはたらくところでは、人間であるというあり方そのものが、危機にさらされていること。 ところで、コロス(合唱隊)を「観客の観客」と、アランは言う。示唆に富む。観客であるとは、観客の観客となることだ。現象学者ならば「第二段階の意識」と言っただろう。観客の観客とはスペクタクルを、心のなかでのように、つねに目の当たりにしているもう一人の観客である。反省的観客、あるいはそう言ってよければ観想的観客。彼は自分の情動を発展させることにはもはや満足しないで、それを克服しもう一つのヴィジョンを創り出し、新しい理解に到達している。この意味で、観客の意識が最初そこに限られた、知覚の規定を表している幻想が、裁かれて、直接的なものに限定され、出来事のインパクトで閉ざされている、そのかぎりで克服されている。幻想が一掃されて、見出されている。 そこから次の指摘がわかる。「この種の修行はおそらく思考そのものの修行、また自己意識の修行と同じである」。アランは「おそらく」と言う。なぜなら、思考の修行はイマージュにとどまらないから。概念を要請し、そして今度は思考のなかで、思考の上で思考の反省をもたらす。それは悲劇の対象でもなければ、喜劇の対象でもない。形而上学の、あるいは批判の対象である。問題はただ、「精神の生理学」のなかで深めることである。なぜなら、問題となっているのは生理学なのだから。 要するに、すべての思考の歩みは思考と身体との結合に行き着く。思考の歩みのなかで、身体の運動でないようなものはない。生成は本質を消し去る。表象は思考と行動の間で均衡を保っている。「行動にかられると、この自己の自己に対する光が消えてしまう」(アラン)。
|