2002 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
14520104
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Research Institution | University of the Ryukyus |
Principal Investigator |
金 成浩 琉球大学, 法文学部, 助教授 (60325826)
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Keywords | ソ連 / 冷戦 / 軍事介入 / アフガニスタン / チェコスロバキア / ポーランド / 外交 / 国際政治 |
Research Abstract |
ソ連のチェコスロバキア軍事介入(1968年)、アフガン軍事介入(1979年)、ポーランド危機(1981年)、アフガン撤退開始(1988年)に関して、ソ連側がどのように考え軍事介入決定(ポーランドの場合は不介入決定)、もしくは撤退決定をおこなったのか、また、どのような政策決定過程を経たのかについて、主にソ連側機密解除資料や回想録などにもとづき分析した。さらにこれらの事例の比較分析から、ソ連外交における米国要因の比重がどれくらいのものであったかについて考察した。上記の研究から得られた主な知見としては以下である。 ソ連は、チェコスロバキア介入(1968年)にあたり米国の出方を探ったが、米国はチェコスロバキア問題に関心を向けなかった。このことはソ連の介入を促進する大きな理由ともなった。ソ連のアフガン侵攻(1979年)では、米国のアフガン反政府勢力への援助は、ソ連の侵攻以前に供与されていたことが判明した。米国の影響力がアフガンで増強されることを懸念したことが、ソ連の侵攻決定の主要理由であった。また、1981年のポーランド戒厳令導入はソ連側が強く要請したものであった。これは、ソ連が米国による制裁を懸念しポ-ランドへは介入できないとしていたためであった。さらに、ソ連のアフガン撤退決定は、ゴルバチョフの言う人類的利益を優先する新思考外交の適応というよりも、ソ連の国益が優先された上での撤退決定であった。 このように、ソ連外交は、とりわけ、ブレジネフ期以降においては、その政策決定においてイデオロギー的思考よりも国益とパワーを重視する現実主義的思考が支配的であった。ソ連の国境線沿いに位置したチェコスロバキア、ポーランド、アフガニスタンという小国の歴史は、米ソ超大国のパワー・ポリティックスの犠牲となった側面があった。
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Research Products
(1 results)