2004 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
14530079
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Research Institution | Osaka University of Commerce |
Principal Investigator |
水田 正史 大阪商業大学, 総合経営学部, 教授 (80219633)
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Keywords | 第1次世界大戦 / イラン / トルコ / ドイツ / 石油 / メソポタミア / アフガニスタン / ブーシェフル |
Research Abstract |
1915年初め、200名ほどのドイツの工作員がイランに潜入した。ドイツのイランにおける工作は、第1次世界大戦期を通じてイギリスを悩ませることになる。イランの人々の親ドイツ感情と、ジャンダルメリーという親ドイツ武装組織の存在がドイツのイランでの活動を助長した。 イギリスは開戦当初より、ペルシャ湾の奥における石油権益を守る決意であった。このために小規模な部隊をインドから派遣し、トルコからファオとバスラを奪取した。これに対しトルコはイギリス系石油会社のパイプライン切断の挙に出たが、結局イギリス軍がトルコを追い払った。さらにこのペルシャ湾岸のイギリス軍はバグダード奪取を目ざすこととなる。バグダードは、いうまでもなくドイツの3B政策の3つのBの内の1つである。ここに、湾岸のみならず、メソポタミア全域が第1次世界大戦における重要な戦線の1つとなった。 イランに話を戻せば、イギリスの関心の対象は石油にとどまるものではなかった。ブーシェフルというペルシャ湾岸の主要貿易港も、イギリスの死守すべき拠点であった。ドイツはこの港を奪取すべく、繰り返し攻撃を行なった。ドイツのイランにおける動きの狙いの主要な柱は、インドへと達することであった。当然のことながら、イギリスとロシアはこれを阻止するために防衛線を張ったが、これを突破してアフガニスタンへと達した者たちがいた。彼らの目的はインドに革命を生ぜしめ、アフガニスタンをインド攻撃へと仕向け、イランをトルコとインドとをつなぐ橋として確保することであった。だが、この目的は達せられなかった。ドイツはイランを東へとブレークスルーすることには成功したが、到達したインド周縁部においてインド本体を、したがってイギリス帝国を震撼させることはできなかったのであった。
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