Research Abstract |
1947年当時,台湾島・花東縦谷平野を中心とした花蓮・台東両県域に在留していた日僑あるいは琉僑と呼ばれていた日本系住民は,留用者95名,その家族204名であったが,意外にも,漁夫の留用者が35名もいたのに,農夫の留用者は皆無であった。つまり,自作農・小作農,さらに農業労働者であるか否かにかかわらず,いわゆる官庁機関・会社の若干数の農業技術者を除けば,すべての農業関係者は,引揚事業の最初期にほぼ強制に近い状況で帰国させられたのである(但し,台湾系住民と結婚していた女性はこの限りにあらず)。このため,『民族的マイノリティーの生活空間の拡縮』を捉える時期が,花東縦谷平野の日本系住民については1910〜44年,石垣島・名蔵蒿田平地の台湾系住民については1920〜72年と跛行的になりつつあるが,今年度の最重点調査地区であった花蓮県吉安郷ならびに台東県鹿野郷での日本系住民の旧村落に関する蒐集資料等(只今,なお整理途上)からは,おおよそ下記のような事柄が明らかになりつつある。 (1),吉安郷にあった官営農業移民村落の吉野村(1910〜22年に,宮前・清水・草分の3部落に329戸入植)は,「府議決定」の移住奨励要項に基づく村建てであったため,入植当初より,Partzsch,D.,の提唱した人間存在の5つの基礎的機能」は最低次元ながら保障されていたが,現地農業に対する理解度ならびに営農意欲度の差違が,その後激しい階層分解と社会的移動を産み出していた。 (2),鹿野郷にあった私営農業移民村落の鹿野村(1915〜24年に,鹿野・鹿寮の2部落に66戸入植)は,台湾製糖株式会社の社有耕地を主に小作することを意図した村建てであったため,「居住」・「労働」するという基礎的機能の保障は当初より存在したが,それ以外の機能の充足には10余年の歳月がかかっている。
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