Research Abstract |
本年度は,開封の都市空間において,北宋王朝が統治の正当性を確立するためのどのような政治行為を行っていたのか明らかにし,首都機能の一環として位置づける作業をおこなった。拙稿「北宋の皇帝行幸について」においては,即位の直後に首都のいずれかの宗教施設に,「民の為に祈る」ことなどを名目に日帰りの行幸をおこない,首都住民に,皇帝の身体を露出し,皇帝の実在と,祖宗との身体的類似性を示すことが,皇帝としての通過儀礼であるとの,士大夫たちの言説を明らかにした。なお,従来の王朝と異なり,首都空間を離れての地方行幸は最初の3代の皇帝を除いて行われていないことも判明した。これら問題は北宋独特の問題であり,王権理論の独自性を追求する鍵となろう。 「宋代の政猟をめぐって」においては王権儀礼である畋猟が,北宋では中止されてことを指摘した。その際に考察したことは,北宋では王権の正当性を畋猟を中止することで表現しようとしていたことである。これは,太宗皇帝の時代にはじまる。従来の議論とかみ合わせると,文治政治の確立が反映されているといえるかも知れない。また,新儒学が強調する華夷思想により,文明と野蛮の二分法がとられ,狩猟は後者に属するものであるという言説が主流になっていったのである。 第99回宋代史談話会においては,「玉清昭応宮の炎上と北宋真宗仁宗時代」と題して報告を行った。この研究報告では,首都開封において,真宗時代に王権の象徴として建設された,玉清昭応宮が,仁宗時代初期に炎上し全焼し,その再建が行われなかったことに注目した。なぜ注目したのかというと,その再建しないという事実は,北宋の王権思想における転換の問題と関係していたからである。首都空間と王権の関係が密接であることを示す顕著な事例である。
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