2016 Fiscal Year Annual Research Report
ワーズワス・コウルリッジ・ブレイクの「哲学詩」における存在論―その現代への射程
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15J02845
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Research Institution | The University of Tokyo |
Principal Investigator |
騎馬 秀太 東京大学, 人文社会系研究科, 特別研究員(DC1)
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Project Period (FY) |
2015-04-24 – 2018-03-31
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Keywords | ワーズワス / コウルリッジ / ヘーゲル / ドイツ観念論 / 想像力 / 習慣 |
Outline of Annual Research Achievements |
第二年度はまずカントからヘーゲルへと「構想力」(=想像力)の概念がどのように取り込まれていったかについて、ドイツ観念論の著作とそれに関する先行研究を分析することによって確認した。そのことにより「構想力」概念それ自体が抱え込んだ不安定さ、矛盾を確認した。これは具体的には主観と客観、精神と自然のあいだに広がった深淵を乗り越えることの可能性と不可能として出来し、神学的には超越的な神と汎神論とのあいだの緊張関係として現れるものである。コウルリッジの「想像力」論はカントやシェリングの想像力論に大きな影響を受けたものであったが、彼自身は超越的な審級としての神を前提として議論を行っているため、最終的には「想像力」が抱え込んだ矛盾を抑圧することとなる。 対してワーズワスは、彼が「想像力」と「空想」のあいだに質的な差異を設けないことからもわかるように、この矛盾をそのまま受け入れている。具体的にはそれが彼において、超越論的な「想像力」と経験主義的「習慣」の同一視へと繋がることとなるのである。そしてこれは矛盾律をその弁証法的な精神の動きのなかに受け入れたヘーゲルと重なるものである。このような形で、「ワーズワス-ヘーゲル」とコウルリッジとのあいだの差異化を行った。 また「想像力」への注目は、この差異化の精度を上げるものともなる。「想像力」が孕んだ不安や矛盾は、詩人コウルリッジと神学者コウルリッジとのあいだの矛盾として立ち現れるため、コウルリッジ自身の抱え込んだ矛盾を表現するものとなるからだ。従来の研究においても、コウルリッジの神学とワーズワスの汎神論的性格との相違は繰り返し指摘されているが、「想像力」に注目することで、両者のあいだの共感と相違をより繊細で微妙な次元で論じることが可能となる。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
第二年度の研究では、ドイツ観念論哲学の精読によって、本研究の眼目である「存在論的差異化」の精度を上げることが可能となった。具体的にはデリダが "Pharmakon"(毒と薬の両方を意味する) という概念によって表現したような両義的な概念の有り様を、本研究が焦点を当ててきた力である「想像力」や「習慣」に見いだすことで、固定化された概念の対立によって差異化を行う(ヘーゲルでいうところの悟性的)研究とは違い、概念それ自体が動的に変容する現場に寄り添いながらの差異化が可能となった。 このことは詩人同士の両価的な心の機微を確実に捉えた差異化を行う点でも不可欠であるが、批評史の文脈でも重要となる。本研究はワーズワスとコウルリッジが計画していた「哲学詩」の内実に光を当てるものであるが、彼らの詩的な存在論を適切に説明するためには、悟性的な批評にしばしば見られる安易な理解の欲望を斥けることが肝要であるからだ。こうした批評はしばしば哲学的知と詩的な知を分離し、詩的な存在論の説明を哲学的な概念で説明することで破壊してしまったり、逆に詩的な領域を哲学的な知によっては理解不可能なものとして神秘化することで、わからないものとしてわかった気になってしまう。最終的には詩人と哲学者との分離、ワーズワスとコウルリッジの分離へと通じるそのような批評的欲望が、これまでの批評史を貫いているが、これを斥けることによってはじめて「哲学詩」の描出が可能となる。それゆえ本研究においては批評の欲望そのものに意識的となり、差異化の精度を上げることが必須なのである。
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Strategy for Future Research Activity |
イギリス・ロマン派の批評史は、ポスト構造主義の影響が色濃いイェール学派による哲学的な読解ののち、それらをテクスト論的な戯れに終始し、現実の「歴史」から逃避することとなっているとし、それを「ロマン主義イデオロギー」として批判したマガンを旗手とする「新歴史主義」以来、歴史実証主義的な読解が主流となってきている。だが例えばイェール学派のド・マンの批評に目を向けてみると、そこには単なるテクスト論には回収することのできない、逆にナイーブに現実の「歴史」を語りだす歴史主義が仮象によって取り逃がしてしまうような「歴史」が露呈している。それはテクスト論という場を借りながら、認識論的な限界より出来する「出来事としての歴史」を語るものであると言える。このような事実を隠蔽しながら、ナイーブな歴史実証主義のみに終始する批評は、自身の認識論的限界から目を背け、批評の欲望に無自覚に盲従する悟性的な研究の域をでないだろう。換言すればそれは、概念的把握をその目標とする批評にとって抑圧の対象となるある種のトラウマであると言えるが、「哲学詩」という(ヘーゲルにおける)理性的対象を扱う本研究はこの外傷に目を向けながら、イェール学派の試みと昨今の歴史実証主義的批評を架橋するような研究を目指すことになる。 この問題が前景化する領域は、主体の知をめぐる形而上学と客観的な知を実証する自然科学との交差する場であると言えるが、具体的に念頭に置いている領域は、「エコクリティシズム」、「神経生物学」、「精神分析」である。シェリング、ヘーゲルの「自然哲学」やコウルリッジの「ノートブック」、「生命論」などを参照しながら、主体・客体双方の知の領域に生じる認識論的限界の裂け目に、可能性と不可能性のあわいに立ち現れる「哲学詩」の可能性を読み取ることを目指す。
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Research Products
(2 results)