2006 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
16520039
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Research Institution | Otani University |
Principal Investigator |
織田 顕祐 大谷大学, 文学部, 助教授 (70247766)
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Keywords | 仏教伝来 / 後漢 / 交趾 / 牟融 / 理惑論 / 弘明集 |
Research Abstract |
本研究の目的は、仏教の中国伝来をインド文化圏と中国文化圏との東西交流と見た時、一体どのようなことが見えてくるのかその実態に迫ることである。従来、仏教の東漸は篤信の外国三蔵によって衡されたと簡単に考えられてきたのであるが、そうした面が否定できないにしても、より大きな働きは文化圏同士の交流にあったのではないかと思われる点がこれまでの調査によって浮かび上がってきた。中国では、しばしば王朝の交代時期に社会が大混乱したのであるが、仏教が伝来した後漢の末頃も例外ではなかった。中国側の資料によれば、そうした際に漢人はしばしば江南およびそれ以南に非難したようであり、当時の交趾(現在のベトナムのハノイ)がその拠点の一つであったようである。交趾はインド・インドシナ・中国の中間にあって、陸路における敦煌のような位置にあり、海路による東西交通の要衝であった。梁の僧祐が編集した『弘明集』には、漢代の牟融撰述の「理惑論」を収めているが、それは牟融が後漢末の混乱を交趾に避けたことがきっかけとなって書かれたものであることを記している。「理惑論」は、初期中国仏教の受容を考察するための極めて重要な著作と言えるが、そこにはある程度詳細な仏伝や、仏経は万巻に及ぷといった言及があり、後漢当時の訳経のみによっては到底知ることのできなかったはずの記述がなされている。この事実は、おそらく牟融が交趾に至って初めて知ったことだったはずであり、已に交趾には相当量の仏教経典が齎されていたことを想像させるのである。少し後の時代には、インド経由で中央アジアから交趾に至った重要な仏教者もあり、東西交流が北方のシルクロード経由ばかりでなかったことを証明している。物流という面から見れば、海路のほうが圧倒的に有利であり、「物」としての経典の将来という視点を見逃すことはできないと考えられる。
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