2005 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
16530328
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Research Institution | Hiroshima University |
Principal Investigator |
材木 和雄 広島大学, 総合科学部, 助教授 (70215929)
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Keywords | ユーゴスラヴィア / 急進党 / クロアチア農民党 / セルビア人 / クロアチア人 / 民族和解 |
Research Abstract |
本年は、大戦間期のユーゴスラヴィアにおける二つの過程を跡づけた。一つは民族和解の試みであり、もう一つはこの試みが挫折し、民族間の不和がいっそう拡大する過程である。 和解の動きは二つあった。第一段階は、1924年に民主党、スロヴェニア人民党、ユーゴ・ムスリム機構の三党連合による「民族和解の政府」の成立である。しかし、この政府は国王に疎んじられたために二ヶ月半で倒れ、急進党が政権に復帰した。彼らはまもなくクロアチア共和農民党に治安維持法を適用し党活動を停止させた。しかし1925年春に劇的な転換が生じた。国王の調停により、クロアチア農民党は現行の憲法と国家制度を承認する立場に転向し、急進党と政策協定を結んで政権に参加した。これが第二段階である。ところが、この和解は長続きしなかった。政権を握る急進党は政策協定で約束した政策を何一つ実行しなかった。このため、これを不満としたクロアチア農民党は政府批判を強め、結局再び野党に転じた。 1928年6月、議会の中で与党議員が5人のクロアチア人議員を拳銃で殺傷する事件が起こった。クロアチアの野党は議会をボイコットした。ところが、与党側は事件を個人的な犯行とみなし、野党側の責任追及にはまったく応じなかった。クロアチアの野党は態度を硬化させた。8月1日、彼らは憲法改正と国家制度の変更を求め、セルビアの政党とは今後いっさい交渉をしないと宣言した。 クロアチア農民党は「今やこの国には国王と国民しか存在しなくなった」という標語を繰り返し、国王の直接行動を待った。しかし、このような態度は、彼らの意図に反し、国王独裁制の呼び水となった。6月20日の事件後すでに独裁制の考えを示唆していた国王はその後慎重に準備を進め、1929年初め、憲法の廃止と議会の解散を命令した。
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Research Products
(2 results)