2006 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
16530328
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Research Institution | HIROSHIMA UNIVERSITY |
Principal Investigator |
材木 和雄 広島大学, 大学院総合科学部, 助教授 (70215929)
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Keywords | ユーゴスラヴィア / 大戦間期 / 民族間題 |
Research Abstract |
本年度は、基礎的作業として、1930年代のユーゴスラヴィアにおける二つの過程を跡づけた。一つは1930年代前半の国王独裁制の下での民族問題への対応であり、もう一つは1930年代後半の摂政制のもとでの民族問題への対応である。 国王アレクサンダルは1929年に議会制の行き詰まりを背景に独裁制を導入した。当初は国民の期待は高く、諸民族の宥和と和解を実現する大きなチャンスであった。しかし、この政治体制も民族間題を解決できなかった。問題の解決のためには地方分権化が必要であったが、国王は逆に中央集権化を強化し、クロアチア人の神経を逆撫でした。したがって、この国の内政上の不安定要因は除去されないままであった。 国王は自らの体制の維持のためには中央集権制を緩和し、複合的な国家編成の容認を求められていた。この必要性は国際情勢を鑑みると増大していた。しかし、集権的な統合路線の放棄を国王は絶対に避けたいと考えていた。まして複合的な国家への転換は国王の頭になかった。国王は結局事態を打開できず、反対派の不満を一身に集めて凶弾に倒れた。 クロアチア人との政治的協定は、1939年に摂政パヴレの脱セルビア王的な決断によって実行された。しかし、この協定はクロアチア農民党を政権側に取り込んだが、クロアチア人の間での同党の支持率を弱め、かえって分離主義勢力の拡大を招いた。さらにこの協定はセルビアで大きな反発を招き、大セルビア的な国家単位を要求する運動を高めた。スロヴエニア人やムスリム人も同等の権利を要求した。クロアチア人、セルビア人、ムスリム人の領土要求は相互に重なり合う部分があり、その調停には大きな困難が予想された。ユーゴスラヴィアの国家構造の再編が最終的にどのような形に落ち着くのかはまったく不透明な状況となった。このように求心力を弱めた国家は枢軸国の攻撃でもろくも瓦解したのは無理からぬことであった。
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Research Products
(2 results)