Research Abstract |
本研究は,上記のテーマを二つの問題に分け,研究を進めた。第一の問題は,義務教育制度が発足したあと,唱歌教育が軽視される中で,幾つかの唱歌は民衆の間で愛唱されたことを明らかにし,その媒介者を解明することである。第二の問題は,江戸期から外国文化流入の窓口の役割を果たした長崎で,外国人の歌唱や器楽演奏の日本民衆への影響,明治以後の義務教育における唱歌教育の実態,ミッションスクールの音楽教育の実態を検討し,音楽文化がどう定着したかを解明することである。 第一の問題は,『長崎新聞』『西海新聞』などを精査し,ここで得られた資料を,中村洪介『近代日本洋楽史序説』,大和淳二『文部省唱歌集成』,長田暁二『世界の愛唱歌』等を参照しながら分析し,明治10年代初頭に芸妓らが演奏する清楽が見直され,月琴が民間に普及し,同時に工尺譜で書かれた清楽曲集が愛用されたこと,明治22年,清楽師範として圧倒的な人気を誇った長原梅園が『月琴・俗曲今様手習草』を発刊し,この中で後の「蛍の光」「結んで開いて」,当時の「霞か雲か」「誠は人の道」を,文部省唱歌の題・歌詞を変えて採録して愛好者を広げ,定着させたことが明らかにできた。 第二の問題は,長崎県『学務課教育掛事務簿』,『長崎県会日誌』『明治十二年六月,米国前大統領来港接待記事』等を精査し,ここから得られた資料を,塚原康子『十九世紀日本における西洋音楽の受容』,文部省音楽取調掛『洋楽事始』,『長崎県教育史』,『活水学院百年史』等を参照しながら分析した。結果、俗曲の主な担い手であった芸妓たちに対して、身分解放令施行後も差別的観念があり、それらと政府の「俗曲」否定の理念を背景として、小学校における唱歌教育が西洋音楽と日本音楽の折衷としての童謡を定着させ,生徒の健康増進を実際上の目的として進められたこと,活水学院の前身ではピアノ・オルガン・合唱などの教授が重視され,義務教育の定着とは別に長崎県下の生徒に西洋音楽が定着していったと思われることを明らかにできた。これらを二編の論文にまとめ,報告書に収録した。
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