2018 Fiscal Year Annual Research Report
古代日本における自国・異国イメージの形成過程に関する研究
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17J05068
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Research Institution | Kyoto University |
Principal Investigator |
小塩 慶 京都大学, 文学研究科, 特別研究員(DC1)
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Project Period (FY) |
2017-04-26 – 2020-03-31
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Keywords | 『続日本後紀』 / 医療史 / 中国文化受容 / 技術官人 |
Outline of Annual Research Achievements |
2年目となる本年度は、前年度の研究対象範囲である11世紀から時代を遡り、 9世紀前半を中心に研究を進めた。これは前年度の研究の結果、「国風文化」の解明にはそこに至までの文化の連続性・段階性という問題の重要性が確認されたためである。特に9世紀前半は「唐風化」が進んだ時期とされており、異国イメージ形成を考えるうえで重要な画期である。中でも文化受容を担った人々に焦点を当て、大陸からもたらされた文化・知識のひとつである医療を取り上げ、医療宮人の動向について研究を行った。具体的に得られた知見は以下の通りである。 古代日本の医療については、8世紀以前は渡来系氏族を中心に担われていたこと、また10世紀以降は、8世紀以前とは異なる氏族が技術を伝習していたことが知られている。しかしながらその間の9世紀について詳しく言及されることは少なかった。今回改めて史料を検討した結果、特に弘仁年間を境として医療宮人の出身氏族が大きく変化することが明らかになり、この時期が日本の医療の転換期として位置付けられるとの見通しを得た。 また9世紀における医療関連の記事としてしばしば取り上げられる史料に、『続日本後紀』嘉祥3年3月癸卯条がある。仁明天皇が金液丹を服用した記事として有名であるが、今回再検討を加えた結果、人物や年代比定に関しては従来の見解を見直すべき点や、更なる詳細を明らかにできる点が少なくないことが分かった。これらの作業によって、当該条は一段と具体性を持つ史料として読み解くことが出来るようになった。 以上の内容については、 7月の日本史研究会古代史部会、及び8月の第46回古代史サマーセミナーで口頭報告を行った。当日の質疑応答の内容を踏まえて、文章化して学術雑誌に投稿した。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
本研究課題の目標は、「国風文化」に至るまでの古代日本の大陸文化受容の在り方、そして文化の形成過程を明らかにすることにある。そのためには、儀式などが唐風化した弘仁期、そして近年転換期として注目されている承和期の検討が不可欠である。以上の理由により、本年度は9世紀についての研究を進めた。 前年度は文化の産物である物語を中心に分析したが、本年度は文化の担い手である技術官人の動向を明らかにすることを研究の中心に据えた。本年度の研究の柱となる『続日本後紀』嘉祥3年3月癸卯条は、承和という時代を考えるうえで社会史・学術史・医療史・音楽史・国文学といった幅広い分野にとって重要な史料とされてきた。しかしながらその具体的内容が詳細に検討されることは少なく、また本条については、テキストの校訂にも検討の余地があることが判明した。 本研究で医療官人に関して得られた新たな知見は、大学寮・陰陽寮など他の技術官人の8~9世紀の変容を考えるうえでも一定の見通し与えるものである。文化形成を解明するうえで重要な、「担い手」の問題の一端を明らかにし得たものと考える。これは9世紀以降の日本における大陸文化受容の在り方を考える指針となる。前年度の成果と併せると、9世紀および11世紀における大陸文化受容の在り方を、それぞれ文化の「産物」と「担い手」という異なる観点から検討することが出来たといえる。 以上から、現在のところ研究はおおむね順調に進展していると考える。
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Strategy for Future Research Activity |
3年次となる来年度は、当初の計画通り、自国イメージの検討に移る。具体的には、いわゆる「延喜・天暦聖代観」の再検討を通して、10世紀から11世紀にかけて形成されていく「和」の構造を解明することを目指す。 「延喜・天暦」の時代を聖代として仰ぐ風潮は、早く10世紀後葉には史料上確認できる。先行研究により、「延喜・天暦」の時代の内実は国内外の動乱期に当たり、一方で様々な側面に於いて11世紀以降の規範となる諸制度が完成する転換期でもあったことが明らかにされている。こうした中、文人貴族を中心にして理想化された「聖代」として意識されていくというのである。 しかしながら、日本に於いて「延喜・天暦」が、「尭・舜」「周・漢」といった中国の「聖代」に並び立つ存在に何故なり得たのかという根本的な問題については、意外にも十分に検討がなされているとは言い難い。これを明らかにするために、まずは主に六国史を対象として、「延喜・天暦」以前の「聖代(規範となり得る時代・人)」とはどのようなものであるかを再検討していく必要がある。その後、『本朝文粋』『源氏物語』などの国文学作品、儀式書、古記録、説話集など様々な性格の文献を通して、「延喜・天暦」の時代が聖代として確立していく過程を実証的に跡付けしていきたい。 これらの作業により、国内の問題として捉えられることが多い「延喜・天暦聖代観」の問題を、和と漢の問題として捉え直すことが可能になると考える。最終的に、本研究の大きな課題である、「国風文化」期における自国・異国イメージの位置付けの解明につなげることを目標とする。
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