2017 Fiscal Year Annual Research Report
A metaphysical foundation of free will and responsibility in terms of the concept of ability
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17J07640
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Research Institution | The University of Tokyo |
Principal Investigator |
高崎 将平 東京大学, 人文社会系研究科, 特別研究員(DC2)
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Project Period (FY) |
2017-04-26 – 2019-03-31
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Keywords | 自由意志 / 道徳的責任 / 両立論 / 能力 / 懐疑論 / 操作論証 / メタ哲学 |
Outline of Annual Research Achievements |
本研究の最大の研究成果は、自由意志/道徳的責任の両立論的理論に対する最も強力な批判のひとつである「操作論証」(cf. D. Pereboom, Living Without Free Will)の体系的検討である。その成果は第10回応用哲学会年次大会にて口頭発表の形で発表された。具体的な内容は以下の二点にまとめられる。 ①操作論証の論証的構造を明らかにした。操作論証は(その提唱者も含め)両立論への論駁を意図するものと理解されてきたが、その理解は誤りである。というのも、両立論への「ノックダウン論証」として操作論証を理解する場合、論証は論点先取の誤りを犯すことを避けられないからである。むしろ操作論証は、両立論的理論のある種の「限界」を提示し、その対応を両立論に迫る挑戦と受け止められるべきである。 ②操作論証が両立論に突き付ける挑戦は、有名な「道徳的運」(moral luck)の問題と通底するものである。道徳的運の問題とは、行為者の性格形成や行為の決定要因の大部分は遺伝的要因や幼少期の環境的要因といった行為者のコントロール外のものに由来しており、その限りで、行為者の行為に責任を帰属したり非難を向けるのは不当である、という問題である。 本研究の意義は、両立論理論が胚胎する本質的な限界を指摘したことにある。両立論は、決定論と自由意志/道徳的責任の両立性を主張する以上、道徳的運の問題を避けることができない。行為者の行為や人格を決定づける遺伝的、環境的要因は「構成的運」(constitutive luck)と呼ばれるが、従来の論争において両立論は、上述の運の問題を深刻視してこなかった。その理由は、これまで「運」ないし「ランダム性」はもっぱら量子的な物理的不確定性(非決定論)の文脈で論じられてきたからである。本研究は両立論の課題を構成的運の問題に定めた点で、論争的な重要性を持つと言える。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
本研究が当初の計画通り順調に進展したと判断する理由として、自由意志/道徳的責任の両立論理論に対する重要な批判である「操作論証」に関する研究の進展が挙げられる。筆者は操作論証がいかなる点で内在主義的な両立論の限界を指し示しているかを指摘し、同時に、操作論証の論証的構造に対する批判的検討をおこなった。その成果を第10回応用哲学会年次大会にて発表した(さらにその成果を発展させた論考を科学哲学会の機関誌『科学哲学』にて投稿する予定である)。 他方、当初予期しなかかった研究の方向性の変化として、「個別理論の精緻化からメタ哲学的(方法論的)考察へ」の転回が挙げられる。本研究は道徳的責任の「内在主義」と「外在主義」の両面からの挟撃的分析に基づく両立論理論の構築という、いわば個別理論の精緻化を企図するものであった。だが研究を進めるうち、自由論/責任論の論争がしばしば「論争的ステイルメイト」に陥るという実情を深刻に受け止めるようになった。すなわち、自由論/責任論の論争には、「個別理論が仮に<理想的な>理論モデルを構築したとしても、対立論者はそれを受け入れないであろう」という性質があるという認識に至った。以上の経緯から筆者は、個別理論の構築と対立理論の論駁に努めるのではなく、まずもって自由論における論争対立をいかにして適切に、有意義に理解するか、そしてどのような方法論で理論構築を目指すべきか、というメタ哲学的関心のもと、研究を進展させてきた。 とりわけ筆者は、自由論における懐疑論的論証(G. Strawsonの「基本論証」)が認識論における懐疑論の論証構造と同型であるという着想を得た。現代認識論においてデカルト的懐疑論がどのような仕方で受容され、また克服されたかを手掛かりに、自由意志懐疑論に対する適切な応答の方法論を提案する趣旨の論考を日本哲学会の機関紙『哲学』に投稿する予定である。
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Strategy for Future Research Activity |
前述のとおり、両立論の最大の課題は、構成的運に基づく運の問題である。すなわち両立論者は、行為者の人格形成や行為を決定づける要因の大半は行為者のコントロール外のものに起因するにも関わらず、それでも行為者への帰責が正当化されることを説明する必要である。ここで正当化の鍵となるのは、行為者の自発的な「努力」が行為選択や人格形成に果たしうる役割を画定する試みである。 筆者は上述の問題関心のもと、現代の「知能」研究と哲学的自由論とを接続するという着想を得た。知能研究においては、膨大な実験データの集積をもとに、人間の知能がどの程度遺伝によって決定され、どの程度家庭環境や教育によって決定されるかという問題が論じられている(「生まれか育ちか」論争)。従来の知能論争では、遺伝主義(hereditarianism)と環境主義(environmentalism)という二項対立図式のもと、人間の知能の個人差(ないし集団間の格差)のうち何割が遺伝的要因で何割が環境的要因に由来するか、という論点に終始してきた傾向がある。だが筆者の考えでは、人間の知能の何割が「本人の努力」によって改善(改悪)可能か、という視点の導入が重要である。そしてその路線での経験的探究の成果は、本研究が遂行してきた「努力」や「能力」概念の哲学的分析と合わさることで、両立論的理論の積極的な意義を析出することに寄与するはずである。というのも、知能研究分野の経験的探究によって判明する行為者の「自発的努力」の貢献の程度によって、行為者の構成的運にも関わらず行為者への帰責や非難・称賛といった態度の帰属が正当化される根拠が与えられうるからである。 筆者は本研究を、知能研究に詳しい名古屋大学PDの次田瞬氏と協働して進めている。その研究成果は、応用哲学会の機関紙、および英米の哲学ジャーナルにて発表する予定である。
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